その日の悪夢はやさしくて
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4月1日ネタ。過去作(文字装飾なしver)。
愚者がみる、幸せな、叶うことのない夢の話。
***
本文を読む
ドンドルマ近郊、都会と田舎の狭間にある街。その一角、路地を抜けた先。住宅地の中に押し込められたような出で立ちの一軒家に、この日の朝がやってきた。
まだ少し冷たい季節の陽射は平穏を乗せて、その中を行く人の手は一通の封書を乗せて。少しずつ移ろっていく、そんな日常の風景があった。
やがてその人影が一軒家の古ぼけた扉を叩く時、ひとつの流れが動き出す。
それは、何よりもやさしくて代え難い、幸せに続く人の道。
***
「所長」
部屋の扉を軽くノックしながら、一度目の呼びかけ。しかしそれでは予想通り、返事どころか物音すらもない。
立ち止まったまま頭の中で三だけ数えて、次には遠慮なく勢い付けて扉を開け放つ。大きな音がしたがそれでもまだ無反応な相手に、ほんの少し呆れながら再び呼びかける。
「所長。しょーちょーうー。起きてください」
資料や手紙で散らかりっぱなしの部屋の奥、椅子に座ったまま寝ているその人の側に向かって、大股で歩を進める。それにしても、背もたれに寄りかかったまま顔だけ上に向けて、その上に開いた本を乗せたまま居眠りをするなんて――こんなところまで器用にならなくてもいいだろうに。
すぐ隣に立てば、すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。ひとたび狩場に出れば全身の感覚を鋭い針のように研ぎ澄ますくせに、ここへ帰ればただの呑気なおじさんになってしまうのだから、全く困ったものだ。
一先ず顔の上の本を奪い、その間抜け顔を目にしてから、肩を掴んで揺する。寝づらそうな姿勢の割に眠りは深いようで、椅子がガタガタ音をたてるまで揺らしてもなかなか覚醒してはくれない。あまりに気の緩んだ光景に少し苛立ちを覚えながら、もう一度声をかけることにした。
「……所長、カミラが今にも雷落としそうな顔で廊下に立ってますよ」
「ん……? ぅ、うわぁあッ!?」
助手の名前を出した途端、所長はぱちっと目を見開いて自ら椅子から転げ落ちて資料の山に頭をぶつけに行った。積み重ねられたその山は思ったよりも硬いらしく、ぶつかった瞬間そこそこ痛そうな鈍い音がして、思わず目を瞑ってしまう。
頭をぶつけた当人はどうやら少し目を回してしまったようで、焦点の定まらない寝ぼけ眼を必死に見開きながら、覚束ない口ぶりで慌て始めた。
「ぼ、ぼく、なにもしてない! あっ、昨日のつまみ食いはわるかったと思ってるけど、えっと、へやの片付けはあしたやるし、それに――」
「心当たりありすぎだろあんた……」
呆れ返り、思わずため息が出てしまう。当然カミラが怒っているなんていうのは嘘だが、この様子では彼女が買い物から帰って来たら本当に雷を落とされても文句は言えなさそうだ。
暫くぽかんとしていた様子の所長だったが、少しずつ状況を理解し始めたらしく、寝ていた時よりももっと間抜けな顔でこちらをじっと見つめてきた。それがなんとなく可笑しくて、気の抜けた笑みが溢れてしまう。
「目は覚めました?」
「え、ああ、うん、たぶん」
呆けた顔のまま曖昧な返事をした所長に、とうとう笑いを抑えきれなくなってしまった。当の本人はまだカミラのことを警戒しているようで、その挙動不審さも相まってより一層面白く思えた。
この様子では騙されたことを理解できるかどうかも怪しいものだが、騙したままというのも心苦しい。とりあえず落ち着かせてやるべく、頭をぶつけたまま不自然な格好で固まっている所長の前に屈み込んだ。
「カミラは朝早くから買い出しに行きました。まだ帰ってませんよ」
「そ……そうなの? よかったあ」
ホッと息をつく姿は、どこからどう見ても頼りない。この人の下で十年ほど仕事をしてきたが、こういう一面を見ると自分の将来が不安になってしまうのも当然のことだろう。
それでも未だ、後悔したことはない。勉学に励み、なんとか掴み取った理想叶う道。頼りなくとも頼もしい、そんな人を師として征くこの道は、波乱もあれど楽しいものだから。
「あれ……それじゃあ、随分早く起こしに来たね?」
「ああ、そうだった」
まともに話ができそうな顔になった所長を見て、やっとの事で話したかった本題に入る。所長の呑気な目覚め方のせいでうっかり忘れるところだった、と付け加えたい気持ちを抑えながら。
少し勿体ぶりながら、部屋に入る前から手に持っていた封書をひらりと揺らして見せつければ、所長の視線はそれに吸い寄せられた。
「ほら。あんたに一通、お手紙ですよ」
***
見たことがない印の封蝋は、所長は少し知っているようだった。それを目にした所長は、頷きながらその印が示す施設の名を呼んだ。
「ふむ、龍歴院からだね」
「龍歴院? 確か、ベルナ村ってとこにある……」
「そうそう。大きな研究機関でね、ハンターズギルドとも関わりの深い組織さ」
言いながら手紙の封を切った所長は、意外と簡潔な文面に目を通し始めた。所長が文章を読むのはいつも早くて、それでいて理解力も記憶力も秀でている。その姿を見る度、伊達に長年研究職をやっていないのだと思わされるものだった。
あっという間に読み終えた所長は、手紙を元通りに折り畳む。その表情を見るに、知らせは悪いものではなかったらしい。
「うん、仕事の依頼だね。人が足りないそうだ。近頃、所属ハンター達の活躍によって調査が進んでいる“古代林”の調査拡大のためにってさ」
「それでうちに声をかけたってことですか」
「そうだろうねえ。いやはや、こんな大きな機関にまで僕らの名声が届くとはね! まるで夢のようだよ」
――彼の言葉に、何かが引っかかる気がする。
嬉しそうに語る所長は、まるで子どものように無邪気な笑顔を浮かべていた。それに思わず頬が緩んで、彼と同じ好奇心に駆られてしまう。
「当然受けるんですよね」
「断る理由はないねえ。もちろん君も来るだろう?」
「行かないと仕事ないでしょ?」
「それはそうだが……君って好きじゃないか、こういう未知の詰まったところ」
「好きじゃなきゃあんたの下で仕事なんてしてないですよ」
いつもの言い合いと、それに伴う楽しそうなにやけ顔。親友のような兄弟のような、或いは親子だったりするのかもしれないと、そう考えてしまうような不思議な距離の近さ。最早イエスかノーかなんて在り来りな返答は自分たちには不要で、無駄にも見える応酬を楽しむのが作法だ。
暫く続いていたデスクワークの日々から逃れられると思うと、身も心も浮足立ってしまう。一先ずやりかけの仕事は終わらせて、残っているものは今回も留守番の席から離れたがらないであろうカミラに任せるとしよう――そこまで考えていた時、所長がふと難しい顔をしたのが視界に映った。何か不安でも、と問うよりも早く、彼は懸念を口にする。
「今回は少し長くなってしまうね。それこそ数年規模での長期滞在になるかもしれない」
「数年……ですか」
それを聞いて、所長が何を心配しているのかを理解し、彼と同じように表情を曇らせた。本来なら不安に思いたくもないことだが、その人の存在がある以上は仕方のないことだ。
「定期的にこちらへ戻ることも難しくはないかもしれないが……それでも遠い場所に長期間身を置くことになるのは変わらない。家庭は大丈夫かい?」
「……大丈夫でしょ、多分。そろそろ子離れしてもらわないと」
ため息混じりに答えながら、自分とは切っても切れない存在であるその人のことを考える。今ここに居られるのは確かにその人のお陰なのだが、今こうして健康でいられるのも彼女のお陰に違いないのだが。ここに縛り付けられている理由というのもまた、彼女という存在があるからだ。
この研究所から少し離れた所に住んで――正確には外へ出ていかないよう閉じ込めて――いる、血の繋がった家族のこと。それを思いやる度に、少しばかり頭痛に悩まされることとなるのだった。
「お母さん、最近どうだい? 元気にしているかな」
「ええ、まあ。いやいつもピンピンしてますけど」
「心の方も安定してるなら、君も安心できるだろうけどねえ」
なんて言いつつ、一番不安がっているのは所長だ。初めての遠征に出発する日なんか、街外れまですごい形相で追いかけてきた隻腕の女を見て悲鳴を上げ、閃光玉を投げようとまでしていたのだから。そんな経緯もあって、所長の中にある彼女の印象は凄まじいものとなってしまっている。
俺を産み、殆どひとりで育てた彼女は、元からどこかおかしかったらしい。一人息子にどこまでも執着し、こうしてきちんと仕事ができるほどに育っても甘やかそうとするその徹底した子煩悩ぶりも、狂気とも言える彼女の実態の片鱗に過ぎなかった。
それでも冷静に考えてみれば、沢山の苦難を乗り越えてきた人であって、その強さは確かなものだ。精神だって弱くもなんともないかもしれない。ただ、愛するものへの依存の度合いが常識を越えているというだけで。
「なんだかんだ、強かな人ですから。ちゃんと言って聞かせれば、置いてったって平気ですよ」
「僕としては、君がいなくなった途端ご飯も食べれなくなって、そのまま孤独死でもしてしまわないかって不安――」
「もう、人の親にまで悪い想像働かせないでくださいよ。しかも妙に現実味あるし」
「だってえ……怖いんだもの」
嫌な想像ばかりするのは、所長の悪い癖だった。それがあるからこそ、調査中に危険を予知して安全にやり過ごすことだってできるのだが、こういった局面でも遺憾なく発揮されてしまうから少しばかり質が悪い。
こういう時に尻込みする所長を引っ張るのは、いつも俺の役目だ。
「俺がちゃんと『死なずにここで待ってるように』って説得しますよ。俺の頼みは断らない人ですし、なんとかなるはずです」
「いやあ……君も大変だねえ」
所長の言葉にはただ肩を竦めるだけにして、今後の予定を考えることにした。やろうと思えば一日でも支度ができると所長に伝えれば、彼はにこやかに頷く。これで日程は殆ど決まったようなものだった。
カミラが帰ってくる前に引き継ぐ仕事の整理をしなければ。そう思い立ち、所長には少しでも部屋を片付けるよう言い聞かせてから、彼の部屋を後にする。ぎくりと固まる所長の顔を思えば、帰宅早々不機嫌になったカミラと話さなくてはいけない状況までもが見えてきて、乾いた笑いがひとりでに零れ落ちた。
それでもやはり、その先の未来を想像するのは楽しかった。
いつどんな時も、生命のあふれる大地というものは自分を魅了してやまない。新たな発見と出会いがある地へ征くことは、自分にとって一番の生き甲斐に他ならない。
夢に見た日々を過ごせること。それは何よりも幸福で、満ち足りたものだった。
――そうか、夢、なのか。
***
刺々しい口調のカミラになんとか仕事を頼み込んで、きちんと説得し了承をとったはずの母が出発の日になって泣きついてきたのをやっとの事で引き剥がし、ようやく辿り着いた龍歴院。
手続きも済んで、早速調査に向かうことになった。そうして初めて踏み込んだ古代林で俺を待ち受けていたのは、大きな災難だった。
「…………いっ……たぁ」
なんとか身を落ち着けた木陰で、強い衝撃を受けて激痛を訴える腰を擦る。上がった息をやっと整えて絞り出せた声が意味のないもので、それになんとなく落ち込みながら。
所長と別行動をとることになり、深層へ向かった彼と別れてすぐ。涼しい風の吹く洞窟を歩き、壁に見える巨大な化石に感嘆の声を漏らしていた時だった。
突然奥から大挙して押し寄せてきた“奴ら”に追い回され、頭突きを食らわされながらも命からがら洞窟の外へ逃げ出して、転がり込むように身を隠し、今に至る。これを災難と呼ばずになんと呼ぶか。
「はあ……どこに行ってもリノプロスは厄介だな」
ため息と共に漏れ出た自身の独り言を聞きながら、腰の骨が折れていないかどうかを確かめる。触っただけでも骨は無事なことがわかって、大きな打撲で済んだことに安堵し、再びのため息。
歩けるようになったら、一旦キャンプへ引き返そう。今日はハンターが先に来ているそうだから、大型のモンスターに足止めされるなんて不幸なことにはならないはずだ。当然、顔を合わせてもいないその人物がちゃんと仕事をしてくれていたら、の話だが。
当然ながら、ここは大自然の只中。ハンターがいるからと油断をしていい訳ではない。所長と違って丸腰な分、気を引き締めて行かなければ――そう考えながら、やっとの思いで立ち上がる。木陰から身を乗り出し、強い日差しの照りつける水辺へと足を踏み出した。
踏み出した、その瞬間。
目の前に影が落ちたのが、見えた。
「…………」
言葉が出るはずもない。出さずとも、さらなる災難に見舞われた事実は理解できるからだ。
ああ、お前のせいか。お前のせいなんだな。お前がいたから、あのリノプロス共はこっちへ逃げてきていた訳だ。
そりゃあ奴らも逃げたくなるだろうな。あいつらって突進が得意だけど、流石に敵いっこないもんなあ。
“陸を統べる緑の女王様”には。
首をもたげ、きょろきょろと縄張りを見渡す“陸の女王”に悟られぬよう、じりじりと後退していく。もう一度木陰に身を隠せばやり過ごせるかもしれない――そんな淡い期待をあっさりと砕くのは、やはり目の前の飛竜の視線だった。
絶望感も凄まじいのだが、寧ろこの展開には安心感を覚える。この距離で動くものに気付けないのであれば、目の前の竜は野生生物失格と言えるだろうから。
まさしく、目と鼻の先。そんな距離感で、雌火竜リオレイアと丸腰の調査員たる俺は、対峙した。
「な……」
雌火竜が強靭な脚で一度地面を掻く間に、震える声が溢れた。
大きく上体を起こした雌火竜が息を吸うのと同時に息を吸い、猛々しい咆哮に耳を塞ぎながら――。
「何も目の前に降りてくることないだろーッ!!」
大声で、これまでで一番の不満をぶちまけた。
そんなことをしたところで、雌火竜が「はいすみませんでした」と去っていってくれるわけでもなく。腰が痛いとか気にしている暇なんてない、とにかく逃げなければ、ああ、焦れば焦るほど思考が鈍る。もたついている場合ではないのに!
雌火竜の唸り声に身体を思いっきり叩かれたような気がして、その勢いのままに勝手に足が動く。しかしそれは所詮反射で、自分の意志で動かしていないものは思った以上に掬われやすいもので。
たかが小石に躓いて、顔から派手に転けるのもまた、予想の通りではあった。
「う゛っ、わ、ちょっ」
悲鳴らしい悲鳴も出せないのでは、やられ際も格好がつかない。そもそもやられてしまえば全てがお終いなのだから意味もないのだが、今はとにかく意味のないことしか考えられなかった。
直後、腹を押さえつけられるずっしりと重い感触に襲われて、また声無き声で叫んでしまう。もうここまで来れば無反応でもいいだろうに、肉体の反射は案外生きているものだった。
「そ、そういうのやめて!?」
やめてと言ってやめてくれる相手ではないことは理解している。理解していても抵抗したくなる。
ここから助かるなんて奇跡のような話。有り得ないとはわかっている。
だったら最期に、長年夢見てきた『モンスターとの意思疎通』を図ってみてもいいじゃないか。
――あれだけ拒んでいたことを、試す気になるなんてな。俺はいつも我儘で、龍の声なんて聞こうともしなかったのに。
声なんて聞こえていないリオレイアは、獲物を地に押さえつける脚により力を込めながら、熱の篭った獰猛な息を吐く。それに対抗するように、熱を込めて望みを口にしてみる。
「せめてもっと、こう、やるなら一思いに、」
今の俺は、もう周囲を見ていたくもなくてぎゅっと目を瞑ったまま、必死になってリオレイアに変な頼み事をする男でしかない。
滑稽極まりない様ではあるが、これまでもそういう生き方をしてきたのだから、合点がいかない訳でもない。
もうどうにでもなれ。
「ガツンと――」
がつん。
いやそんな、何もわざわざ言った通りにしなくても……まさか頼みが通じたっていうのか。
ああ、本当に馬鹿げている。こんな人生があってたまるか。楽しくて仕方なくて、最期の瞬間まで変な不運と奇跡に見舞われて……質の悪い悪夢じゃないか、こんなの。
――本当に、悪夢だ。満更でもない死は、こんな世界にもあるっていうのか。なんて幸せで、恐ろしいことだろうか。
……いや、おかしい。身体が動く、気がする。随分遠くに感覚があるが、確かに動く。
というか、目も開く。前が見える。自分が転がっている古代林の水辺の地面が目の前にある。
身体を押さえつけていた重たいものの感触はない。軽い、ひたすらに軽い。ならばここは死後の世界か?
違う。俺は、生きている――。
まだ息ができることに気付いて、真っ先に気になったのは、リオレイアの行方と『がつん』という確かな音の出処だった。それを探るべく背後に視線を向ければ、全ての疑問を解決する情景がはっきりと目に映る。
時間はゆっくりと流れていた。音から今に至るまで、ただの三秒も経っていないかもしれないとすら思えた――叩き落とされたリオレイアの翼爪が、未だ宙を舞っていたから。
目を見開いて、緩やかに過ぎる瞬間の全てを映し出していく。
斧。見慣れない大きなそれが、陸の女王の鋭い翼爪を根本から折っていた。
リオレイアは大きく怯み、弱々しい呻きをあげて後退していた。
そして、熱を纏う、人の影があった。
その横顔が視界に映ってからは、目まぐるしく状況が変わる。
たじろぐような様子を見せたリオレイアは、人影に向かって威嚇の唸りを上げながら逃げるように飛び立った。たった一瞬で爪を落とされたのだ、生存を第一に考える生命らしい賢明な判断と言えるだろう。
人影は、リオレイアが飛び去った方の空を見ていた。その中でも振り下ろした斧を構える両腕から自然に力を抜いて、ガチンと機械的な音を鳴らした。
思ったよりも冷静でいられる。ひとしきり脳内で色んな感情が暴れまわった反動だろうか。
助かった、助けてもらった。その事実を、呆然としたままに飲み込んでいる。
まだ全身に力が入らなくて、立ち上がることは叶わない。複雑に変形し盾に似た形状になった斧を背に担ぎ上げるその人が、こちらを振り向き青空と同じ色の瞳を向けるのを、ただ見つめていることしかできない。
燃え盛る炎のような出で立ちの鎧に身を包んだ、右目を覆う濃赤色の髪の、狩人の姿を。
その人がこちらに手を差し伸べる、瞬間を。
夢に見た“英雄”の、にこやかな笑顔を。
ただ、見上げることしかできない。
――わかっていたよ。もう、日は昇っているから。
「大丈夫っすか?」
凛とした声の問いかけに答えることができたのは、全てに気付いた後だった。
「……ああ。ありがとう」
もう何も思わなくていい。
視界は途切れ、ぷつりと消えてなくなった。
***
その全ては、泡沫の夢。
幸せなまぼろしの果て、目覚めゆく。
やさしい嘘にまだ騙されていたくて、気怠い朝にただ膝を抱えているだけ。
今日は、きっとそれも許される日。
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更新日:2024年4月1日21:20
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その日の悪夢はやさしくて
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4月1日ネタ。過去作(文字装飾なしver)。
愚者がみる、幸せな、叶うことのない夢の話。
***
ドンドルマ近郊、都会と田舎の狭間にある街。その一角、路地を抜けた先。住宅地の中に押し込められたような出で立ちの一軒家に、この日の朝がやってきた。
まだ少し冷たい季節の陽射は平穏を乗せて、その中を行く人の手は一通の封書を乗せて。少しずつ移ろっていく、そんな日常の風景があった。
やがてその人影が一軒家の古ぼけた扉を叩く時、ひとつの流れが動き出す。
それは、何よりもやさしくて代え難い、幸せに続く人の道。
***
「所長」
部屋の扉を軽くノックしながら、一度目の呼びかけ。しかしそれでは予想通り、返事どころか物音すらもない。
立ち止まったまま頭の中で三だけ数えて、次には遠慮なく勢い付けて扉を開け放つ。大きな音がしたがそれでもまだ無反応な相手に、ほんの少し呆れながら再び呼びかける。
「所長。しょーちょーうー。起きてください」
資料や手紙で散らかりっぱなしの部屋の奥、椅子に座ったまま寝ているその人の側に向かって、大股で歩を進める。それにしても、背もたれに寄りかかったまま顔だけ上に向けて、その上に開いた本を乗せたまま居眠りをするなんて――こんなところまで器用にならなくてもいいだろうに。
すぐ隣に立てば、すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。ひとたび狩場に出れば全身の感覚を鋭い針のように研ぎ澄ますくせに、ここへ帰ればただの呑気なおじさんになってしまうのだから、全く困ったものだ。
一先ず顔の上の本を奪い、その間抜け顔を目にしてから、肩を掴んで揺する。寝づらそうな姿勢の割に眠りは深いようで、椅子がガタガタ音をたてるまで揺らしてもなかなか覚醒してはくれない。あまりに気の緩んだ光景に少し苛立ちを覚えながら、もう一度声をかけることにした。
「……所長、カミラが今にも雷落としそうな顔で廊下に立ってますよ」
「ん……? ぅ、うわぁあッ!?」
助手の名前を出した途端、所長はぱちっと目を見開いて自ら椅子から転げ落ちて資料の山に頭をぶつけに行った。積み重ねられたその山は思ったよりも硬いらしく、ぶつかった瞬間そこそこ痛そうな鈍い音がして、思わず目を瞑ってしまう。
頭をぶつけた当人はどうやら少し目を回してしまったようで、焦点の定まらない寝ぼけ眼を必死に見開きながら、覚束ない口ぶりで慌て始めた。
「ぼ、ぼく、なにもしてない! あっ、昨日のつまみ食いはわるかったと思ってるけど、えっと、へやの片付けはあしたやるし、それに――」
「心当たりありすぎだろあんた……」
呆れ返り、思わずため息が出てしまう。当然カミラが怒っているなんていうのは嘘だが、この様子では彼女が買い物から帰って来たら本当に雷を落とされても文句は言えなさそうだ。
暫くぽかんとしていた様子の所長だったが、少しずつ状況を理解し始めたらしく、寝ていた時よりももっと間抜けな顔でこちらをじっと見つめてきた。それがなんとなく可笑しくて、気の抜けた笑みが溢れてしまう。
「目は覚めました?」
「え、ああ、うん、たぶん」
呆けた顔のまま曖昧な返事をした所長に、とうとう笑いを抑えきれなくなってしまった。当の本人はまだカミラのことを警戒しているようで、その挙動不審さも相まってより一層面白く思えた。
この様子では騙されたことを理解できるかどうかも怪しいものだが、騙したままというのも心苦しい。とりあえず落ち着かせてやるべく、頭をぶつけたまま不自然な格好で固まっている所長の前に屈み込んだ。
「カミラは朝早くから買い出しに行きました。まだ帰ってませんよ」
「そ……そうなの? よかったあ」
ホッと息をつく姿は、どこからどう見ても頼りない。この人の下で十年ほど仕事をしてきたが、こういう一面を見ると自分の将来が不安になってしまうのも当然のことだろう。
それでも未だ、後悔したことはない。勉学に励み、なんとか掴み取った理想叶う道。頼りなくとも頼もしい、そんな人を師として征くこの道は、波乱もあれど楽しいものだから。
「あれ……それじゃあ、随分早く起こしに来たね?」
「ああ、そうだった」
まともに話ができそうな顔になった所長を見て、やっとの事で話したかった本題に入る。所長の呑気な目覚め方のせいでうっかり忘れるところだった、と付け加えたい気持ちを抑えながら。
少し勿体ぶりながら、部屋に入る前から手に持っていた封書をひらりと揺らして見せつければ、所長の視線はそれに吸い寄せられた。
「ほら。あんたに一通、お手紙ですよ」
***
見たことがない印の封蝋は、所長は少し知っているようだった。それを目にした所長は、頷きながらその印が示す施設の名を呼んだ。
「ふむ、龍歴院からだね」
「龍歴院? 確か、ベルナ村ってとこにある……」
「そうそう。大きな研究機関でね、ハンターズギルドとも関わりの深い組織さ」
言いながら手紙の封を切った所長は、意外と簡潔な文面に目を通し始めた。所長が文章を読むのはいつも早くて、それでいて理解力も記憶力も秀でている。その姿を見る度、伊達に長年研究職をやっていないのだと思わされるものだった。
あっという間に読み終えた所長は、手紙を元通りに折り畳む。その表情を見るに、知らせは悪いものではなかったらしい。
「うん、仕事の依頼だね。人が足りないそうだ。近頃、所属ハンター達の活躍によって調査が進んでいる“古代林”の調査拡大のためにってさ」
「それでうちに声をかけたってことですか」
「そうだろうねえ。いやはや、こんな大きな機関にまで僕らの名声が届くとはね! まるで夢のようだよ」
――彼の言葉に、何かが引っかかる気がする。
嬉しそうに語る所長は、まるで子どものように無邪気な笑顔を浮かべていた。それに思わず頬が緩んで、彼と同じ好奇心に駆られてしまう。
「当然受けるんですよね」
「断る理由はないねえ。もちろん君も来るだろう?」
「行かないと仕事ないでしょ?」
「それはそうだが……君って好きじゃないか、こういう未知の詰まったところ」
「好きじゃなきゃあんたの下で仕事なんてしてないですよ」
いつもの言い合いと、それに伴う楽しそうなにやけ顔。親友のような兄弟のような、或いは親子だったりするのかもしれないと、そう考えてしまうような不思議な距離の近さ。最早イエスかノーかなんて在り来りな返答は自分たちには不要で、無駄にも見える応酬を楽しむのが作法だ。
暫く続いていたデスクワークの日々から逃れられると思うと、身も心も浮足立ってしまう。一先ずやりかけの仕事は終わらせて、残っているものは今回も留守番の席から離れたがらないであろうカミラに任せるとしよう――そこまで考えていた時、所長がふと難しい顔をしたのが視界に映った。何か不安でも、と問うよりも早く、彼は懸念を口にする。
「今回は少し長くなってしまうね。それこそ数年規模での長期滞在になるかもしれない」
「数年……ですか」
それを聞いて、所長が何を心配しているのかを理解し、彼と同じように表情を曇らせた。本来なら不安に思いたくもないことだが、その人の存在がある以上は仕方のないことだ。
「定期的にこちらへ戻ることも難しくはないかもしれないが……それでも遠い場所に長期間身を置くことになるのは変わらない。家庭は大丈夫かい?」
「……大丈夫でしょ、多分。そろそろ子離れしてもらわないと」
ため息混じりに答えながら、自分とは切っても切れない存在であるその人のことを考える。今ここに居られるのは確かにその人のお陰なのだが、今こうして健康でいられるのも彼女のお陰に違いないのだが。ここに縛り付けられている理由というのもまた、彼女という存在があるからだ。
この研究所から少し離れた所に住んで――正確には外へ出ていかないよう閉じ込めて――いる、血の繋がった家族のこと。それを思いやる度に、少しばかり頭痛に悩まされることとなるのだった。
「お母さん、最近どうだい? 元気にしているかな」
「ええ、まあ。いやいつもピンピンしてますけど」
「心の方も安定してるなら、君も安心できるだろうけどねえ」
なんて言いつつ、一番不安がっているのは所長だ。初めての遠征に出発する日なんか、街外れまですごい形相で追いかけてきた隻腕の女を見て悲鳴を上げ、閃光玉を投げようとまでしていたのだから。そんな経緯もあって、所長の中にある彼女の印象は凄まじいものとなってしまっている。
俺を産み、殆どひとりで育てた彼女は、元からどこかおかしかったらしい。一人息子にどこまでも執着し、こうしてきちんと仕事ができるほどに育っても甘やかそうとするその徹底した子煩悩ぶりも、狂気とも言える彼女の実態の片鱗に過ぎなかった。
それでも冷静に考えてみれば、沢山の苦難を乗り越えてきた人であって、その強さは確かなものだ。精神だって弱くもなんともないかもしれない。ただ、愛するものへの依存の度合いが常識を越えているというだけで。
「なんだかんだ、強かな人ですから。ちゃんと言って聞かせれば、置いてったって平気ですよ」
「僕としては、君がいなくなった途端ご飯も食べれなくなって、そのまま孤独死でもしてしまわないかって不安――」
「もう、人の親にまで悪い想像働かせないでくださいよ。しかも妙に現実味あるし」
「だってえ……怖いんだもの」
嫌な想像ばかりするのは、所長の悪い癖だった。それがあるからこそ、調査中に危険を予知して安全にやり過ごすことだってできるのだが、こういった局面でも遺憾なく発揮されてしまうから少しばかり質が悪い。
こういう時に尻込みする所長を引っ張るのは、いつも俺の役目だ。
「俺がちゃんと『死なずにここで待ってるように』って説得しますよ。俺の頼みは断らない人ですし、なんとかなるはずです」
「いやあ……君も大変だねえ」
所長の言葉にはただ肩を竦めるだけにして、今後の予定を考えることにした。やろうと思えば一日でも支度ができると所長に伝えれば、彼はにこやかに頷く。これで日程は殆ど決まったようなものだった。
カミラが帰ってくる前に引き継ぐ仕事の整理をしなければ。そう思い立ち、所長には少しでも部屋を片付けるよう言い聞かせてから、彼の部屋を後にする。ぎくりと固まる所長の顔を思えば、帰宅早々不機嫌になったカミラと話さなくてはいけない状況までもが見えてきて、乾いた笑いがひとりでに零れ落ちた。
それでもやはり、その先の未来を想像するのは楽しかった。
いつどんな時も、生命のあふれる大地というものは自分を魅了してやまない。新たな発見と出会いがある地へ征くことは、自分にとって一番の生き甲斐に他ならない。
夢に見た日々を過ごせること。それは何よりも幸福で、満ち足りたものだった。
――そうか、夢、なのか。
***
刺々しい口調のカミラになんとか仕事を頼み込んで、きちんと説得し了承をとったはずの母が出発の日になって泣きついてきたのをやっとの事で引き剥がし、ようやく辿り着いた龍歴院。
手続きも済んで、早速調査に向かうことになった。そうして初めて踏み込んだ古代林で俺を待ち受けていたのは、大きな災難だった。
「…………いっ……たぁ」
なんとか身を落ち着けた木陰で、強い衝撃を受けて激痛を訴える腰を擦る。上がった息をやっと整えて絞り出せた声が意味のないもので、それになんとなく落ち込みながら。
所長と別行動をとることになり、深層へ向かった彼と別れてすぐ。涼しい風の吹く洞窟を歩き、壁に見える巨大な化石に感嘆の声を漏らしていた時だった。
突然奥から大挙して押し寄せてきた“奴ら”に追い回され、頭突きを食らわされながらも命からがら洞窟の外へ逃げ出して、転がり込むように身を隠し、今に至る。これを災難と呼ばずになんと呼ぶか。
「はあ……どこに行ってもリノプロスは厄介だな」
ため息と共に漏れ出た自身の独り言を聞きながら、腰の骨が折れていないかどうかを確かめる。触っただけでも骨は無事なことがわかって、大きな打撲で済んだことに安堵し、再びのため息。
歩けるようになったら、一旦キャンプへ引き返そう。今日はハンターが先に来ているそうだから、大型のモンスターに足止めされるなんて不幸なことにはならないはずだ。当然、顔を合わせてもいないその人物がちゃんと仕事をしてくれていたら、の話だが。
当然ながら、ここは大自然の只中。ハンターがいるからと油断をしていい訳ではない。所長と違って丸腰な分、気を引き締めて行かなければ――そう考えながら、やっとの思いで立ち上がる。木陰から身を乗り出し、強い日差しの照りつける水辺へと足を踏み出した。
踏み出した、その瞬間。
目の前に影が落ちたのが、見えた。
「…………」
言葉が出るはずもない。出さずとも、さらなる災難に見舞われた事実は理解できるからだ。
ああ、お前のせいか。お前のせいなんだな。お前がいたから、あのリノプロス共はこっちへ逃げてきていた訳だ。
そりゃあ奴らも逃げたくなるだろうな。あいつらって突進が得意だけど、流石に敵いっこないもんなあ。
“陸を統べる緑の女王様”には。
首をもたげ、きょろきょろと縄張りを見渡す“陸の女王”に悟られぬよう、じりじりと後退していく。もう一度木陰に身を隠せばやり過ごせるかもしれない――そんな淡い期待をあっさりと砕くのは、やはり目の前の飛竜の視線だった。
絶望感も凄まじいのだが、寧ろこの展開には安心感を覚える。この距離で動くものに気付けないのであれば、目の前の竜は野生生物失格と言えるだろうから。
まさしく、目と鼻の先。そんな距離感で、雌火竜リオレイアと丸腰の調査員たる俺は、対峙した。
「な……」
雌火竜が強靭な脚で一度地面を掻く間に、震える声が溢れた。
大きく上体を起こした雌火竜が息を吸うのと同時に息を吸い、猛々しい咆哮に耳を塞ぎながら――。
「何も目の前に降りてくることないだろーッ!!」
大声で、これまでで一番の不満をぶちまけた。
そんなことをしたところで、雌火竜が「はいすみませんでした」と去っていってくれるわけでもなく。腰が痛いとか気にしている暇なんてない、とにかく逃げなければ、ああ、焦れば焦るほど思考が鈍る。もたついている場合ではないのに!
雌火竜の唸り声に身体を思いっきり叩かれたような気がして、その勢いのままに勝手に足が動く。しかしそれは所詮反射で、自分の意志で動かしていないものは思った以上に掬われやすいもので。
たかが小石に躓いて、顔から派手に転けるのもまた、予想の通りではあった。
「う゛っ、わ、ちょっ」
悲鳴らしい悲鳴も出せないのでは、やられ際も格好がつかない。そもそもやられてしまえば全てがお終いなのだから意味もないのだが、今はとにかく意味のないことしか考えられなかった。
直後、腹を押さえつけられるずっしりと重い感触に襲われて、また声無き声で叫んでしまう。もうここまで来れば無反応でもいいだろうに、肉体の反射は案外生きているものだった。
「そ、そういうのやめて!?」
やめてと言ってやめてくれる相手ではないことは理解している。理解していても抵抗したくなる。
ここから助かるなんて奇跡のような話。有り得ないとはわかっている。
だったら最期に、長年夢見てきた『モンスターとの意思疎通』を図ってみてもいいじゃないか。
――あれだけ拒んでいたことを、試す気になるなんてな。俺はいつも我儘で、龍の声なんて聞こうともしなかったのに。
声なんて聞こえていないリオレイアは、獲物を地に押さえつける脚により力を込めながら、熱の篭った獰猛な息を吐く。それに対抗するように、熱を込めて望みを口にしてみる。
「せめてもっと、こう、やるなら一思いに、」
今の俺は、もう周囲を見ていたくもなくてぎゅっと目を瞑ったまま、必死になってリオレイアに変な頼み事をする男でしかない。
滑稽極まりない様ではあるが、これまでもそういう生き方をしてきたのだから、合点がいかない訳でもない。
もうどうにでもなれ。
「ガツンと――」
がつん。
いやそんな、何もわざわざ言った通りにしなくても……まさか頼みが通じたっていうのか。
ああ、本当に馬鹿げている。こんな人生があってたまるか。楽しくて仕方なくて、最期の瞬間まで変な不運と奇跡に見舞われて……質の悪い悪夢じゃないか、こんなの。
――本当に、悪夢だ。満更でもない死は、こんな世界にもあるっていうのか。なんて幸せで、恐ろしいことだろうか。
……いや、おかしい。身体が動く、気がする。随分遠くに感覚があるが、確かに動く。
というか、目も開く。前が見える。自分が転がっている古代林の水辺の地面が目の前にある。
身体を押さえつけていた重たいものの感触はない。軽い、ひたすらに軽い。ならばここは死後の世界か?
違う。俺は、生きている――。
まだ息ができることに気付いて、真っ先に気になったのは、リオレイアの行方と『がつん』という確かな音の出処だった。それを探るべく背後に視線を向ければ、全ての疑問を解決する情景がはっきりと目に映る。
時間はゆっくりと流れていた。音から今に至るまで、ただの三秒も経っていないかもしれないとすら思えた――叩き落とされたリオレイアの翼爪が、未だ宙を舞っていたから。
目を見開いて、緩やかに過ぎる瞬間の全てを映し出していく。
斧。見慣れない大きなそれが、陸の女王の鋭い翼爪を根本から折っていた。
リオレイアは大きく怯み、弱々しい呻きをあげて後退していた。
そして、熱を纏う、人の影があった。
その横顔が視界に映ってからは、目まぐるしく状況が変わる。
たじろぐような様子を見せたリオレイアは、人影に向かって威嚇の唸りを上げながら逃げるように飛び立った。たった一瞬で爪を落とされたのだ、生存を第一に考える生命らしい賢明な判断と言えるだろう。
人影は、リオレイアが飛び去った方の空を見ていた。その中でも振り下ろした斧を構える両腕から自然に力を抜いて、ガチンと機械的な音を鳴らした。
思ったよりも冷静でいられる。ひとしきり脳内で色んな感情が暴れまわった反動だろうか。
助かった、助けてもらった。その事実を、呆然としたままに飲み込んでいる。
まだ全身に力が入らなくて、立ち上がることは叶わない。複雑に変形し盾に似た形状になった斧を背に担ぎ上げるその人が、こちらを振り向き青空と同じ色の瞳を向けるのを、ただ見つめていることしかできない。
燃え盛る炎のような出で立ちの鎧に身を包んだ、右目を覆う濃赤色の髪の、狩人の姿を。
その人がこちらに手を差し伸べる、瞬間を。
夢に見た“英雄”の、にこやかな笑顔を。
ただ、見上げることしかできない。
――わかっていたよ。もう、日は昇っているから。
「大丈夫っすか?」
凛とした声の問いかけに答えることができたのは、全てに気付いた後だった。
「……ああ。ありがとう」
もう何も思わなくていい。
視界は途切れ、ぷつりと消えてなくなった。
***
その全ては、泡沫の夢。
幸せなまぼろしの果て、目覚めゆく。
やさしい嘘にまだ騙されていたくて、気怠い朝にただ膝を抱えているだけ。
今日は、きっとそれも許される日。