先頭固定
2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
その日の悪夢はやさしくて
#XX / #Short / #IF
4月1日ネタ。過去作(文字装飾なしver)。
愚者がみる、幸せな、叶うことのない夢の話。
***
ドンドルマ近郊、都会と田舎の狭間にある街。その一角、路地を抜けた先。住宅地の中に押し込められたような出で立ちの一軒家に、この日の朝がやってきた。
まだ少し冷たい季節の陽射は平穏を乗せて、その中を行く人の手は一通の封書を乗せて。少しずつ移ろっていく、そんな日常の風景があった。
やがてその人影が一軒家の古ぼけた扉を叩く時、ひとつの流れが動き出す。
それは、何よりもやさしくて代え難い、幸せに続く人の道。
***
「所長」
部屋の扉を軽くノックしながら、一度目の呼びかけ。しかしそれでは予想通り、返事どころか物音すらもない。
立ち止まったまま頭の中で三だけ数えて、次には遠慮なく勢い付けて扉を開け放つ。大きな音がしたがそれでもまだ無反応な相手に、ほんの少し呆れながら再び呼びかける。
「所長。しょーちょーうー。起きてください」
資料や手紙で散らかりっぱなしの部屋の奥、椅子に座ったまま寝ているその人の側に向かって、大股で歩を進める。それにしても、背もたれに寄りかかったまま顔だけ上に向けて、その上に開いた本を乗せたまま居眠りをするなんて――こんなところまで器用にならなくてもいいだろうに。
すぐ隣に立てば、すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。ひとたび狩場に出れば全身の感覚を鋭い針のように研ぎ澄ますくせに、ここへ帰ればただの呑気なおじさんになってしまうのだから、全く困ったものだ。
一先ず顔の上の本を奪い、その間抜け顔を目にしてから、肩を掴んで揺する。寝づらそうな姿勢の割に眠りは深いようで、椅子がガタガタ音をたてるまで揺らしてもなかなか覚醒してはくれない。あまりに気の緩んだ光景に少し苛立ちを覚えながら、もう一度声をかけることにした。
「……所長、カミラが今にも雷落としそうな顔で廊下に立ってますよ」
「ん……? ぅ、うわぁあッ!?」
助手の名前を出した途端、所長はぱちっと目を見開いて自ら椅子から転げ落ちて資料の山に頭をぶつけに行った。積み重ねられたその山は思ったよりも硬いらしく、ぶつかった瞬間そこそこ痛そうな鈍い音がして、思わず目を瞑ってしまう。
頭をぶつけた当人はどうやら少し目を回してしまったようで、焦点の定まらない寝ぼけ眼を必死に見開きながら、覚束ない口ぶりで慌て始めた。
「ぼ、ぼく、なにもしてない! あっ、昨日のつまみ食いはわるかったと思ってるけど、えっと、へやの片付けはあしたやるし、それに――」
「心当たりありすぎだろあんた……」
呆れ返り、思わずため息が出てしまう。当然カミラが怒っているなんていうのは嘘だが、この様子では彼女が買い物から帰って来たら本当に雷を落とされても文句は言えなさそうだ。
暫くぽかんとしていた様子の所長だったが、少しずつ状況を理解し始めたらしく、寝ていた時よりももっと間抜けな顔でこちらをじっと見つめてきた。それがなんとなく可笑しくて、気の抜けた笑みが溢れてしまう。
「目は覚めました?」
「え、ああ、うん、たぶん」
呆けた顔のまま曖昧な返事をした所長に、とうとう笑いを抑えきれなくなってしまった。当の本人はまだカミラのことを警戒しているようで、その挙動不審さも相まってより一層面白く思えた。
この様子では騙されたことを理解できるかどうかも怪しいものだが、騙したままというのも心苦しい。とりあえず落ち着かせてやるべく、頭をぶつけたまま不自然な格好で固まっている所長の前に屈み込んだ。
「カミラは朝早くから買い出しに行きました。まだ帰ってませんよ」
「そ……そうなの? よかったあ」
ホッと息をつく姿は、どこからどう見ても頼りない。この人の下で十年ほど仕事をしてきたが、こういう一面を見ると自分の将来が不安になってしまうのも当然のことだろう。
それでも未だ、後悔したことはない。勉学に励み、なんとか掴み取った理想叶う道。頼りなくとも頼もしい、そんな人を師として征くこの道は、波乱もあれど楽しいものだから。
「あれ……それじゃあ、随分早く起こしに来たね?」
「ああ、そうだった」
まともに話ができそうな顔になった所長を見て、やっとの事で話したかった本題に入る。所長の呑気な目覚め方のせいでうっかり忘れるところだった、と付け加えたい気持ちを抑えながら。
少し勿体ぶりながら、部屋に入る前から手に持っていた封書をひらりと揺らして見せつければ、所長の視線はそれに吸い寄せられた。
「ほら。あんたに一通、お手紙ですよ」
***
見たことがない印の封蝋は、所長は少し知っているようだった。それを目にした所長は、頷きながらその印が示す施設の名を呼んだ。
「ふむ、龍歴院からだね」
「龍歴院? 確か、ベルナ村ってとこにある……」
「そうそう。大きな研究機関でね、ハンターズギルドとも関わりの深い組織さ」
言いながら手紙の封を切った所長は、意外と簡潔な文面に目を通し始めた。所長が文章を読むのはいつも早くて、それでいて理解力も記憶力も秀でている。その姿を見る度、伊達に長年研究職をやっていないのだと思わされるものだった。
あっという間に読み終えた所長は、手紙を元通りに折り畳む。その表情を見るに、知らせは悪いものではなかったらしい。
「うん、仕事の依頼だね。人が足りないそうだ。近頃、所属ハンター達の活躍によって調査が進んでいる“古代林”の調査拡大のためにってさ」
「それでうちに声をかけたってことですか」
「そうだろうねえ。いやはや、こんな大きな機関にまで僕らの名声が届くとはね! まるで夢のようだよ」
――彼の言葉に、何かが引っかかる気がする。
嬉しそうに語る所長は、まるで子どものように無邪気な笑顔を浮かべていた。それに思わず頬が緩んで、彼と同じ好奇心に駆られてしまう。
「当然受けるんですよね」
「断る理由はないねえ。もちろん君も来るだろう?」
「行かないと仕事ないでしょ?」
「それはそうだが……君って好きじゃないか、こういう未知の詰まったところ」
「好きじゃなきゃあんたの下で仕事なんてしてないですよ」
いつもの言い合いと、それに伴う楽しそうなにやけ顔。親友のような兄弟のような、或いは親子だったりするのかもしれないと、そう考えてしまうような不思議な距離の近さ。最早イエスかノーかなんて在り来りな返答は自分たちには不要で、無駄にも見える応酬を楽しむのが作法だ。
暫く続いていたデスクワークの日々から逃れられると思うと、身も心も浮足立ってしまう。一先ずやりかけの仕事は終わらせて、残っているものは今回も留守番の席から離れたがらないであろうカミラに任せるとしよう――そこまで考えていた時、所長がふと難しい顔をしたのが視界に映った。何か不安でも、と問うよりも早く、彼は懸念を口にする。
「今回は少し長くなってしまうね。それこそ数年規模での長期滞在になるかもしれない」
「数年……ですか」
それを聞いて、所長が何を心配しているのかを理解し、彼と同じように表情を曇らせた。本来なら不安に思いたくもないことだが、その人の存在がある以上は仕方のないことだ。
「定期的にこちらへ戻ることも難しくはないかもしれないが……それでも遠い場所に長期間身を置くことになるのは変わらない。家庭は大丈夫かい?」
「……大丈夫でしょ、多分。そろそろ子離れしてもらわないと」
ため息混じりに答えながら、自分とは切っても切れない存在であるその人のことを考える。今ここに居られるのは確かにその人のお陰なのだが、今こうして健康でいられるのも彼女のお陰に違いないのだが。ここに縛り付けられている理由というのもまた、彼女という存在があるからだ。
この研究所から少し離れた所に住んで――正確には外へ出ていかないよう閉じ込めて――いる、血の繋がった家族のこと。それを思いやる度に、少しばかり頭痛に悩まされることとなるのだった。
「お母さん、最近どうだい? 元気にしているかな」
「ええ、まあ。いやいつもピンピンしてますけど」
「心の方も安定してるなら、君も安心できるだろうけどねえ」
なんて言いつつ、一番不安がっているのは所長だ。初めての遠征に出発する日なんか、街外れまですごい形相で追いかけてきた隻腕の女を見て悲鳴を上げ、閃光玉を投げようとまでしていたのだから。そんな経緯もあって、所長の中にある彼女の印象は凄まじいものとなってしまっている。
俺を産み、殆どひとりで育てた彼女は、元からどこかおかしかったらしい。一人息子にどこまでも執着し、こうしてきちんと仕事ができるほどに育っても甘やかそうとするその徹底した子煩悩ぶりも、狂気とも言える彼女の実態の片鱗に過ぎなかった。
それでも冷静に考えてみれば、沢山の苦難を乗り越えてきた人であって、その強さは確かなものだ。精神だって弱くもなんともないかもしれない。ただ、愛するものへの依存の度合いが常識を越えているというだけで。
「なんだかんだ、強かな人ですから。ちゃんと言って聞かせれば、置いてったって平気ですよ」
「僕としては、君がいなくなった途端ご飯も食べれなくなって、そのまま孤独死でもしてしまわないかって不安――」
「もう、人の親にまで悪い想像働かせないでくださいよ。しかも妙に現実味あるし」
「だってえ……怖いんだもの」
嫌な想像ばかりするのは、所長の悪い癖だった。それがあるからこそ、調査中に危険を予知して安全にやり過ごすことだってできるのだが、こういった局面でも遺憾なく発揮されてしまうから少しばかり質が悪い。
こういう時に尻込みする所長を引っ張るのは、いつも俺の役目だ。
「俺がちゃんと『死なずにここで待ってるように』って説得しますよ。俺の頼みは断らない人ですし、なんとかなるはずです」
「いやあ……君も大変だねえ」
所長の言葉にはただ肩を竦めるだけにして、今後の予定を考えることにした。やろうと思えば一日でも支度ができると所長に伝えれば、彼はにこやかに頷く。これで日程は殆ど決まったようなものだった。
カミラが帰ってくる前に引き継ぐ仕事の整理をしなければ。そう思い立ち、所長には少しでも部屋を片付けるよう言い聞かせてから、彼の部屋を後にする。ぎくりと固まる所長の顔を思えば、帰宅早々不機嫌になったカミラと話さなくてはいけない状況までもが見えてきて、乾いた笑いがひとりでに零れ落ちた。
それでもやはり、その先の未来を想像するのは楽しかった。
いつどんな時も、生命のあふれる大地というものは自分を魅了してやまない。新たな発見と出会いがある地へ征くことは、自分にとって一番の生き甲斐に他ならない。
夢に見た日々を過ごせること。それは何よりも幸福で、満ち足りたものだった。
――そうか、夢、なのか。
***
刺々しい口調のカミラになんとか仕事を頼み込んで、きちんと説得し了承をとったはずの母が出発の日になって泣きついてきたのをやっとの事で引き剥がし、ようやく辿り着いた龍歴院。
手続きも済んで、早速調査に向かうことになった。そうして初めて踏み込んだ古代林で俺を待ち受けていたのは、大きな災難だった。
「…………いっ……たぁ」
なんとか身を落ち着けた木陰で、強い衝撃を受けて激痛を訴える腰を擦る。上がった息をやっと整えて絞り出せた声が意味のないもので、それになんとなく落ち込みながら。
所長と別行動をとることになり、深層へ向かった彼と別れてすぐ。涼しい風の吹く洞窟を歩き、壁に見える巨大な化石に感嘆の声を漏らしていた時だった。
突然奥から大挙して押し寄せてきた“奴ら”に追い回され、頭突きを食らわされながらも命からがら洞窟の外へ逃げ出して、転がり込むように身を隠し、今に至る。これを災難と呼ばずになんと呼ぶか。
「はあ……どこに行ってもリノプロスは厄介だな」
ため息と共に漏れ出た自身の独り言を聞きながら、腰の骨が折れていないかどうかを確かめる。触っただけでも骨は無事なことがわかって、大きな打撲で済んだことに安堵し、再びのため息。
歩けるようになったら、一旦キャンプへ引き返そう。今日はハンターが先に来ているそうだから、大型のモンスターに足止めされるなんて不幸なことにはならないはずだ。当然、顔を合わせてもいないその人物がちゃんと仕事をしてくれていたら、の話だが。
当然ながら、ここは大自然の只中。ハンターがいるからと油断をしていい訳ではない。所長と違って丸腰な分、気を引き締めて行かなければ――そう考えながら、やっとの思いで立ち上がる。木陰から身を乗り出し、強い日差しの照りつける水辺へと足を踏み出した。
踏み出した、その瞬間。
目の前に影が落ちたのが、見えた。
「…………」
言葉が出るはずもない。出さずとも、さらなる災難に見舞われた事実は理解できるからだ。
ああ、お前のせいか。お前のせいなんだな。お前がいたから、あのリノプロス共はこっちへ逃げてきていた訳だ。
そりゃあ奴らも逃げたくなるだろうな。あいつらって突進が得意だけど、流石に敵いっこないもんなあ。
“陸を統べる緑の女王様”には。
首をもたげ、きょろきょろと縄張りを見渡す“陸の女王”に悟られぬよう、じりじりと後退していく。もう一度木陰に身を隠せばやり過ごせるかもしれない――そんな淡い期待をあっさりと砕くのは、やはり目の前の飛竜の視線だった。
絶望感も凄まじいのだが、寧ろこの展開には安心感を覚える。この距離で動くものに気付けないのであれば、目の前の竜は野生生物失格と言えるだろうから。
まさしく、目と鼻の先。そんな距離感で、雌火竜リオレイアと丸腰の調査員たる俺は、対峙した。
「な……」
雌火竜が強靭な脚で一度地面を掻く間に、震える声が溢れた。
大きく上体を起こした雌火竜が息を吸うのと同時に息を吸い、猛々しい咆哮に耳を塞ぎながら――。
「何も目の前に降りてくることないだろーッ!!」
大声で、これまでで一番の不満をぶちまけた。
そんなことをしたところで、雌火竜が「はいすみませんでした」と去っていってくれるわけでもなく。腰が痛いとか気にしている暇なんてない、とにかく逃げなければ、ああ、焦れば焦るほど思考が鈍る。もたついている場合ではないのに!
雌火竜の唸り声に身体を思いっきり叩かれたような気がして、その勢いのままに勝手に足が動く。しかしそれは所詮反射で、自分の意志で動かしていないものは思った以上に掬われやすいもので。
たかが小石に躓いて、顔から派手に転けるのもまた、予想の通りではあった。
「う゛っ、わ、ちょっ」
悲鳴らしい悲鳴も出せないのでは、やられ際も格好がつかない。そもそもやられてしまえば全てがお終いなのだから意味もないのだが、今はとにかく意味のないことしか考えられなかった。
直後、腹を押さえつけられるずっしりと重い感触に襲われて、また声無き声で叫んでしまう。もうここまで来れば無反応でもいいだろうに、肉体の反射は案外生きているものだった。
「そ、そういうのやめて!?」
やめてと言ってやめてくれる相手ではないことは理解している。理解していても抵抗したくなる。
ここから助かるなんて奇跡のような話。有り得ないとはわかっている。
だったら最期に、長年夢見てきた『モンスターとの意思疎通』を図ってみてもいいじゃないか。
――あれだけ拒んでいたことを、試す気になるなんてな。俺はいつも我儘で、龍の声なんて聞こうともしなかったのに。
声なんて聞こえていないリオレイアは、獲物を地に押さえつける脚により力を込めながら、熱の篭った獰猛な息を吐く。それに対抗するように、熱を込めて望みを口にしてみる。
「せめてもっと、こう、やるなら一思いに、」
今の俺は、もう周囲を見ていたくもなくてぎゅっと目を瞑ったまま、必死になってリオレイアに変な頼み事をする男でしかない。
滑稽極まりない様ではあるが、これまでもそういう生き方をしてきたのだから、合点がいかない訳でもない。
もうどうにでもなれ。
「ガツンと――」
がつん。
いやそんな、何もわざわざ言った通りにしなくても……まさか頼みが通じたっていうのか。
ああ、本当に馬鹿げている。こんな人生があってたまるか。楽しくて仕方なくて、最期の瞬間まで変な不運と奇跡に見舞われて……質の悪い悪夢じゃないか、こんなの。
――本当に、悪夢だ。満更でもない死は、こんな世界にもあるっていうのか。なんて幸せで、恐ろしいことだろうか。
……いや、おかしい。身体が動く、気がする。随分遠くに感覚があるが、確かに動く。
というか、目も開く。前が見える。自分が転がっている古代林の水辺の地面が目の前にある。
身体を押さえつけていた重たいものの感触はない。軽い、ひたすらに軽い。ならばここは死後の世界か?
違う。俺は、生きている――。
まだ息ができることに気付いて、真っ先に気になったのは、リオレイアの行方と『がつん』という確かな音の出処だった。それを探るべく背後に視線を向ければ、全ての疑問を解決する情景がはっきりと目に映る。
時間はゆっくりと流れていた。音から今に至るまで、ただの三秒も経っていないかもしれないとすら思えた――叩き落とされたリオレイアの翼爪が、未だ宙を舞っていたから。
目を見開いて、緩やかに過ぎる瞬間の全てを映し出していく。
斧。見慣れない大きなそれが、陸の女王の鋭い翼爪を根本から折っていた。
リオレイアは大きく怯み、弱々しい呻きをあげて後退していた。
そして、熱を纏う、人の影があった。
その横顔が視界に映ってからは、目まぐるしく状況が変わる。
たじろぐような様子を見せたリオレイアは、人影に向かって威嚇の唸りを上げながら逃げるように飛び立った。たった一瞬で爪を落とされたのだ、生存を第一に考える生命らしい賢明な判断と言えるだろう。
人影は、リオレイアが飛び去った方の空を見ていた。その中でも振り下ろした斧を構える両腕から自然に力を抜いて、ガチンと機械的な音を鳴らした。
思ったよりも冷静でいられる。ひとしきり脳内で色んな感情が暴れまわった反動だろうか。
助かった、助けてもらった。その事実を、呆然としたままに飲み込んでいる。
まだ全身に力が入らなくて、立ち上がることは叶わない。複雑に変形し盾に似た形状になった斧を背に担ぎ上げるその人が、こちらを振り向き青空と同じ色の瞳を向けるのを、ただ見つめていることしかできない。
燃え盛る炎のような出で立ちの鎧に身を包んだ、右目を覆う濃赤色の髪の、狩人の姿を。
その人がこちらに手を差し伸べる、瞬間を。
夢に見た“英雄”の、にこやかな笑顔を。
ただ、見上げることしかできない。
――わかっていたよ。もう、日は昇っているから。
「大丈夫っすか?」
凛とした声の問いかけに答えることができたのは、全てに気付いた後だった。
「……ああ。ありがとう」
もう何も思わなくていい。
視界は途切れ、ぷつりと消えてなくなった。
***
その全ては、泡沫の夢。
幸せなまぼろしの果て、目覚めゆく。
やさしい嘘にまだ騙されていたくて、気怠い朝にただ膝を抱えているだけ。
今日は、きっとそれも許される日。
更新日:2024年4月1日21:20
<8070文字>
<8070文字>
2023年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
寂しさと共に生きていく
#World / #Short
生者は死者を語る。
2023/11/23 いい兄さんの日ネタ。自ハンと自編纂者が喋ってるだけ。
時系列はゾラ捕獲作戦のちょっと後。
⚠ 人の死に関する表現があります
***
しとしとと降り注ぐ雨は、そびえる古代樹の葉を濡らしながら新大陸の地へと落ちていく。
生命力に満ちた巨大なモンスターたちも、暗闇の中に息をひそめ過ごすような静かな夜だった。調査団からあてがわれた自室の片隅で、大きな水車を転がす滝の音を聴きながら、ランプの灯に照らされる彼は目を伏せて机に突っ伏していた。
調査拠点アステラからは、いつも誰かの気配がした。夜も更ける頃だがこれから調査に出掛ける者もいる。彼らの活気溢れる気配は、マイハウスでひとり静かに過ごしている間も彼の胸をざわつかせた。
傍らのマグカップから立ちのぼる湯気は、少しずつ細くなっていった。柔らかな金色の髪の間から輝竜石色の瞳を覗かせ、湯気が細るその様子を見つめていた彼は、ぼんやりとしたまま身を起こしてマグカップを手に取った。
と、そんなときだった。部屋のほうに人影が近づいてくる様子に気づいた彼は、マグカップを口元へ運ぶ手を止めてそちらに注目した。
人影の主の正体は、足音だけですぐにわかった。彼にとってはまだどこかよそよそしい、仕事の上での大切な相棒だ。彼女の姿が見えた瞬間、同じ色の瞳同士が互いに見つめあった。
「……まだ起きていたの」
部屋の入口にたどり着くなりため息をついたその女性は、ここ新大陸へ調査のため派遣されたギルドの精鋭『新大陸古龍調査団』の一員。五期団の編纂者カミラ。一つに束ねた銀色の長い髪は、外を通ったときに雨に降られたからか、少しだけ濡れていた。
いつも通り不機嫌そうな表情で雨粒を払う彼女は、訪ねた部屋の隅でマグカップ片手に椅子に座っている気怠げなハンター、アレクシウスとバディを組んでいる。新大陸に来て初めて共に仕事をして、やっとお互いの人となりを掴んできた頃合だった。
それでも今のアレクシウスには相棒の行動がよく理解できず、厚い前髪に隠れていない方の目をぱちくりとさせた。
「寝てるかもしれないのに部屋に来たんだ?」
「ええ、まあ。預けっぱなしの資料、取りに来ただけだから」
「ああ、そういうこと」
合点がいったようでアレクシウスは頷きながら、机のそばの床にそのまま積まれた本の小山をちらりと見た。そのどれかが彼女の探す資料であることに違いないが、どれがまさにそのものなのかはアレクシウスには見当もつかなかった。
カミラは相棒の視線を追いかけてから、ハア、とまた一段大きなため息をつく。ただ預け物を取りに来ただけとは言ったが、彼が相手では多少骨が折れるのは覚悟していたことだった。整頓を頼んだわけでもなくただ押し付けてしまったものなので、カミラの自業自得ではあるのだが。
カミラは書物の山に歩み寄り、その前にかがみ込みながら、隣でマグカップの中身を啜るアレクシウスに呆れ気味な声を投げかけた。
「体が資本でしょう。明日は朝早いのに、寝なくていいの?」
「なんか眠れなくてさ。昔から寝るのが下手なんだ」
「ハンターとしての基礎もなってないのに、よくここまで来れたわね」
「あはは。まあ、幸運だったのは否定しないよ」
明日は陸珊瑚の台地まで調査に赴くことになっている。熔山龍が大峡谷を抜けて以来大々的に調査が進められているが、まだたくさんの未知と危険が眠っている場所だ。こんなハンターに命を預けて大丈夫なのだろうか、とカミラが一抹の不安を感じ取る中、アレクシウスは至って気楽そうに構えていた。
会話の切れ間にアレクシウスは再びマグカップの中身を啜る。半分ほどまで減った中身は、もうアイルーでも舌を火傷しない程度の温度になっていた。
一口を飲み下したアレクシウスは、ゆっくりと瞬きをしてから視線を床に落とし、ポツリと呟いた。
「眠るのが怖いのかも。情けない話、独りでいると不安でさ」
「……子供みたいね」
「まあ、ね。いい歳して、眠れない夜はよく兄さんの部屋を訪ねていたよ。兄さんのそばに居ると、不思議と落ち着いて……よく眠れたから」
アレクシウスは両手でマグカップを支え、静かに揺れる中の茶をじっと見つめる。視界の端に映ったその姿に、呆れた様子だったカミラは次第に目を丸くして、やがて資料を探す手を止めた。
——彼と初めて会ってから一年は経っただろうか。そのきっかけは血で繋がったかすかな縁だった。三十年もの間互いの顔も知らないでいた、異腹のきょうだい。それでも家族は家族だと、大切な存在だと彼は言った。
そんな彼が〝家族〟の話をしているのは、今日が初めてのことだった。
出会いは唐突の訪問だった。一年ほど前のこと、カミラが所長として運営していた研究所の扉を、アレクシウスはひとりで叩いた。
ぽかんとしている姉に向かって彼は名乗り、単刀直入に要件を伝えた。一緒に新大陸に行かないか、と。
カミラの当然の困惑を受けて、アレクシウスは改めて立場を明かした。ハンターで、しかし本業は画家。そして『ティアベルグ家』の現当主。それが彼、アレクシウス・ツー・ティアベルグの身分だった。
カミラは姓を名乗りこそしないが、自分にティアベルグという辺境の地を治める領主家系の血が流れていることは知っていた。その家系の繋がりは、親の代の不徳に起因する一家離散によって、とっくに失われているということも。
しかし突然現れた末の弟は、まさにその家系がもつ屋敷に生まれ育ち、貴族としての教育を受け、名を継ぎ守る立場にあり。家系と関わりの深いギルドによる証明までなされた、疑いようもない存在だった。
——今となっては、カミラの目には『ちゃらんぽらんで仕事もしないただのダメ男』という風にしか映っていないのだが。
末っ子らしく甘やかされて育ってきたのだろうか。彼の語る〝兄さん〟とはおそらく先代当主の長男のことだが、いくら歳が離れていると言っても実の兄弟を甲斐甲斐しく世話するものだろうか。幼い頃のことで会話した記憶も残っていないが、その男がとんだ兄バカであったことは想像に難くない。
呆れを通り越して苛立ちをも覚えたカミラは、やや語気を強めた。
「せめて寝る努力をしたらどうなの。ベッドで横になるとか、目を瞑るとか」
「ふふ。そうだな、これ飲み終わったらそうする」
アレクシウスはカミラの苛立ちを意にも介さず、マグカップをゆったりと揺らして茶の香りを楽しんでいる。
カミラは諦めを表情に滲ませた。何を言っても無駄だと思わせるようなマイペースな人間は、彼女が最も苦手とするタイプだった。
ふと、カミラの鋭い嗅覚が漂う香りをとらえた。アレクシウスの飲む茶の香りだと、カミラにはすぐにわかった。
どこかで嗅いだことがあるような、しかしこれと言って見当のつかない香り。良い香りであることには違いなく、それなりに値段のする茶葉なのだろうと思えた。ここ新大陸で作られたとは考えにくい。つまり、彼が持ち込んだ私物なのだろう。
学者の性か、一抹の興味もそのままにはしておけない。カミラはアレクシウスの方へ向き直り、訊ねた。
「ねえ、それってなんのお茶? どこかで嗅いだような香りだけど」
「え、その距離からわかるの。姉さんの鼻どうなってるのさ」
「結構強い香りでしょう、それ」
言われてみればそうかもしれない、とでも言うような曖昧な表情で天井に一度視線をやってから、アレクシウスは彼女の疑問に答えた。
「落陽草だよ。いい香りだろ」
「……日陰に生えてる、あの?」
「そう。それと他にもいくつか加えたブレンドハーブティー。ハチミツも入れてある」
落陽草といえば、いい香りはするが薬やにおい消しに使うのが主なところだ。葉だけでなく花や根にも用途があり、それらはハンターの生活の中にも広く取り入れられている。それを茶にするというのは、カミラが知る限りではあまり馴染みがなかった。
どうしても置いていけなくて持ってきたんだ、とアレクシウスは続ける。暗がりの中でカップの中を見つめる彼は、穏やかな、どこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
「兄さんの好きな香りだった。俺も一番好きだ」
——ああ、また〝兄さん〟か。カミラは表情を変えることなく、ぼんやりとただそう思った。
カミラは弟の気持ちが少しだけ理解できた気がして、何も言わずに本の山へと再び向き直った。彼はただ、浸りたいのだろう。茶の香りが引き起こす感傷の波、そこに見える大切な家族の面影を語る時間というものに。
少しばかりの無音の間のあと、アレクシウスはカミラへと訊ねた。
「姉さんって兄さんと会ったことあるんだっけ。ほら、家を出る前とか」
「……どうかしら。家を出てもう三十年よ、覚えてない」
「それもそうか」
わかりきった答えを聞いて、アレクシウスはあからさまに残念そうな表情を浮かべた。不器用同士ではどうにもうまくいかないと、お互いに諦めているかのような間が続く。
そんな中で、ふとカミラは資料を探す手を止めた。
「名前くらいは知っている。リーンハルト兄さん。先代の当主でしょう」
「うん、そう」
アレクシウスの語調は少し明るくなった。まるで姉が会話を続けてくれること、それそのものを喜ぶかのようだ。
対してカミラは、名前だけではないかの人の記憶を思い出しては、どう言葉にするかを悩んでいる。浮かび上がった純な思いをやっと絞り出したとき、その声は不自然に震えていた。
「……残念だったわね。腕の立つハンターだったんでしょう」
リーンハルト・ツー・ティアベルグ。その名前を改めてカミラが聞いたのは数年前。ちょうど砂漠の近辺に滞在していた仕事仲間が、ギルドの要請を受けて現場の事後調査へ駆り出されたときだった。
調査を終えて帰還した仕事仲間は、躊躇いがちにもその凄惨さを語った。狩猟中の事故として片付けるには、あまりに惨い有様だったと。
原因となったモンスターの残した痕跡から、そのモンスターは正常な状態ではなかったと断定された。ウイルスに侵されていたのだ。狂竜ウイルス——原因不明の災厄だったそれは優秀なハンターたちの活躍によって解明されたが、研究は今なお続けられている。感染したモンスターの恐ろしさは、現象発生から今までずっと変わらない脅威だ。
ウイルスによってまともな精神状態を保てなくなったモンスターの不意打ちを受け、亡骸もほぼ残らないほどに喰い散らかされていた。それがリーンハルトというハンターが迎えた最期だったという。
顔も思い出せない、ほとんど他人のような兄の話だ。それでもカミラが話を聞いたとき、その胸には締め付けられるような感覚があった。
今彼女の目の前で口元は微笑んだまま俯いている末の弟は、もっと長い時を兄と過ごしたのだろう。その目には、未だ飲み込むことのできない悲しみが浮かんでいた。
「俺が六つ位のときかな。お爺様が突然亡くなったんだ。それからは兄さんが、俺にとって唯一の家族だった」
「……そうなの」
「優しかった。導いてくれた。兄さんだって大変だっただろうに、いつも俺を気にかけててさ。今こうしてハンターとして出世できたのも、間違いなく兄さんのおかげなんだ」
「…………」
「お爺様の死から立ち直れたのだって、兄さんがいたからだ。ずっと一緒に支えあって生きていこうって……約束していた」
既に崩壊した家系に生まれた末弟。そんな彼がここまで歩んでこれたのは、確かに長男たる彼の功績だったのだろう。
アレクシウスが生まれたのは、崩壊の引き金となった父親が行方知れずとなったあとだ。そのとき辺境の屋敷に住んでいたのは、当時の当主だった祖父と歳の離れた兄、そして物言わぬ人形のような生みの母親。あとは何匹かの給仕のアイルーだけだった。
今となっては、ただ孤独だけが彼の心に残されていた。
「いいひとほど、はやく逝ってしまう。どうしてなんだろうな」
アレクシウスはまたマグカップの中身を一口啜った。もう湯気は立ちのぼっておらず、マグカップの底の色も見え始める頃だった。
冷めきってしまう前に、早く飲み終えていい加減に眠らなければ。アレクシウスの脳裏にはそんな考えが過ったが、そのときがやってくるのも耐え難く感じて、残り僅かなハーブティーをゆらゆらと転がしては香りを立たせようとした。
静かな時間が過ぎていく中で、アレクシウスはただ淡々と語る。
——戻ってきたのは片腕だけだった。それでも故郷の墓に入れてあげられたのだから、全部砂漠の塵となってしまうよりはきっとマシだったはずだ。
兄さんは俺が描く絵も好きでいてくれた。買い手のつかない落書きも豪華な額縁に入れて飾ろうとするからさ、ちょっと恥ずかしくて。ああでも、新大陸で見たものを描いてみせたら喜ぶだろうなあ。火の山を背負う龍の姿とか、きっと気に入ってくれたと思う。
冒険の話も聞いてくれたらよかったのに。せっかくこんなに遠くまで来ていろんなものを見たのに、それを語って聞かせたい人も、もういない——。
「……はは。さみしい、だなんて。子供みたいで呆れるよな、本当に……」
自嘲するように笑って、アレクシウスは力なく首を振った。まるで叱責を待つような態度で顔を上げ、普段通りの姉の言葉を待つ。
カミラはやっと見つけた目的の本を小脇に抱え、その場に立ち上がってからハアとため息をつく。アレクシウスはそちらを見ることなく、残りのハーブティーをくいと飲み干した。冷めてしまった茶を彼が飲み下すのを見届けて、カミラは口を開いた。
「遺された者は寂しいものよ。いつだって」
その声音はアレクシウスが聞いたことのない、柔らかな響きを持っていた。
アレクシウスは目を丸くして、思わず姉の方を見る。しかしカミラは表情を変えることなく続けた。
「その寂しさがあるから、大切な人のぬくもりを忘れないでいられるの」
ぽかんとしているアレクシウスを、カミラはただじっと見つめ返す。カミラの表情は一見するといつもの仏頂面だが、アレクシウスには普段とは全く違うものが見えていた。
哀悼の意が染み込んだその表情は紛れもなく、寂しさを茶化して薄れさせたがる孤独な弟のためのものだ。飲み込みきれない思いを抱えたまま、独りであっても前へ進むことを決意し、故郷からはるか遠い新大陸へ渡った家族のため。彼のための励ましと慰めだ。
カミラは幼い日に道を分かたれた兄のことなど、何も知らずにいる。それでも今そばに居る家族と、想いを分かち合うことはできた。
アレクシウスはゆっくりと目を細める。こみ上げた思いを言葉にするのは、子供のように振る舞いながらでは難しいことだった。
「姉さんって……思ったより人間なんだ」
「当たり前でしょう。失礼なこと言わないで」
「ご、ごめん」
アレクシウスの一言で、カミラはいつもの仏頂面に戻ってぷいとそっぽを向いた。抱えた本の背表紙の汚れを払うような仕草をしながら、部屋の入口側へ向けて踵を返す。
その一瞬にアレクシウスの視界に映ったのは、ランプの微かな光だけでも手に取るようにわかる、不器用な姉の照れくさそうな横顔だった。
「早く寝たら? お茶、飲み終えたんでしょう」
「ああ、うん。そうだな」
「まったく。命預けてるんだから……しっかりしてよね」
その一言を最後に、カミラは部屋を出ようとする。気がつけば夜の細い雨は止み、雲の隙間から月明かりが覗いていた。
アレクシウスはその背に向けて、微笑みながら一言を返した。その声色にはもう、心を引き摺るような哀傷は残っていなかった。
「任せてよ。ちゃんと守るからさ」
更新日:2023年11月23日00:00
<6516文字>
<6516文字>
長病みの暗は密より甘い
#XX / #Short
毒好きメンヘラマゾヒストくんの話。
文章が古すぎ。多分すぐ下げる(テスト用に投稿増やし中)
***
青く澄み渡る空、爽やかなさざなみの音、あつく照りつける日差し。
雲ひとつ無い快晴の日、狩人は大陸の最東部にある密林を訪れていた。華やかな柄の鉄扇ふたつを背に、どこか気の重そうな表情で。
故郷からほど近いこの地の思い出といえば、どうしても“その人”の影が付きまとった。ここへ来るまでの空の旅の最中も、仕事で来ているのだからと気持ちを切り替えようとしていたが、なかなかうまくは行かなかった。
歩きながら漏れる何度目かもわからない溜息の音に、足元からじっと主人を見上げていた獣人も痺れを切らして、愛らしい声を投げかけた。
「ニャァ、旦那さん。具合悪いニャ?」
「あ、いや……うーん。平気だけど……」
歯切れの悪い狩人の言葉に、首鳴竜を模した着ぐるみ姿の獣人は、その長い首を傾げて見せた。
心から心配しているであろう獣人の見えぬ表情に、狩人の男は気まずくなって、片目を覆うほど厚い毒々しい色味の髪を触る。
「……平気だよ。ちょっと、調子上がんないだけ」
再びの溜息混じりに、憂いを帯びた目の狩人はそう断じる。それから今一度歩を進め、一直線に林の方を目指していく。
獣人はそんな彼を引き留めたくなったが、既に引き受けた仕事である以上そうはいかないとも理解していた。少し遠慮がちになりながらも、小さな歩幅で前を行く主人に従い進む。
「旦那さん、最近ちょっと元気ないニャ。ボク、心配ニャ」
「んん……そう言われると弱いな」
この獣人との付き合いも、それなりに長くなりつつある。狩人にとって彼は今や歳の離れた弟のような存在であり、彼が狩人を思い遣る気持ちは一片の偽りもないものであった。
「でもまあ、大丈夫だろ。段取りも決めたし失敗はしない」
そう言って、狩人は小さな相棒に笑いかける。その笑顔はいつも通りの彼らしく見え、活力も十分であるように感じられた。
獣人は少し胸を撫で下ろしたようで、背にかけていたドングリの槍を手にとり、頭上に掲げてやる気を誇示した。
「フフン。その“段取り”、ボクにはわかるニャ! 親の方を先に狩猟して、安全になったところでメインターゲットを……って魂胆だニャ?」
「ご明答。少ないけど狩猟の報酬も出るしな」
「そして何より、旦那さんは狩りが大好きニャ! 卵を運ぶだけの仕事なんてツマラナイって言いそうだものニャ」
「ははっ、わかってるじゃん。ハンターたるもの、体動かしてナンボだろ?」
二人は笑い合いながら、樹々の間を抜けていく。堅い信頼を確かに感じて、此度の依頼もうまくこなせるだろうことを二人は確信していた。
瞬間、獣人が何かの気配を察知してぴくりと身体を震わせたのを、狩人は見落とさなかった。素早く前方に注意を移し、身を屈めて目先に広がる草地の様子を伺う。
先程から落ち着きのなかったアプトノス達が、慌てふためき四方へと散り散りになる。それは即ち、一先ずの標的がその場に現れることの前兆と断言できる事象であった。
草地に落ちた影を見るなり、狩人の男は囁くほどの声で獣人へ声を掛けた。
「……目線が逸れたら足元に奇襲する。状況見て援護を」
声を受けた獣人は、やわらかな着ぐるみの首をふわりと縦に振る。それを目で確認することもなく、この狩りでも万全のサポートを受けられることを心得た狩人は、瞬きすらせずに前方をくすんだ金色の瞳でじっと見据える。
翼をはためかせる音が近づく。風のなかった大地を靡かせ、君臨する。
屈強な両脚で地を掴み、深緑の飛竜は荒々しい息を吐く。凛とした琥珀色の眼光は、“女王”と呼ぶに相応しい気品に充ち満ちていた。
こちらを向いていた“女王”は、自身を狙う者たちに気づくことなく、首をもたげて周囲を見渡している。そしてそのまま踵を返し、自身の縄張りを闊歩し始めた。それこそが、狩る者にとっての千載一遇の好機。狩人はすかさず地を蹴って木陰から飛び出し、舞うが如き所作で得物を手にとった。
悪いがこれも仕事なんだ、恨むなよ――そう思ったのは束の間で、瞬きの後には無情なるハンターの顔つきに切り替わる。速度を上げ駆け抜ける彼のその目は、宛ら血に飢えた獣。生命を賭けた狩り合いを望む、戦いに生きる者の瞳。
それは紛れもなく、彼自身が忌む“その人”と同じ、昏い輝きを持っていた。
***
剣を振るっている間は、気が楽になった。
そんなことを思っていると、反りの合わないあの女と似たようなことを考えているんじゃないかと、段々不安になってくる。それでも事実だ。やっぱり俺たちは似た者同士で、それ故に反発し合うんだろう。
ずっと長く、心のなかをかき乱している薄暗い靄のようなもの。それから目を逸らせる瞬間は、一寸先に死が見えるほどの緊迫した戦いの間、それしかない。
華々しく舞う鉄扇の双撃が、竜の甲殻を削ぎ落とす。怒りに唸る竜の炎を得物で払い勢いに変え、鋭さを増した刃で顎下めがけて斬り込んでいく。
次、そして次と、手を止めることはなく斬撃を見舞う。そうして数多の創痍を刻み、追い詰めていく。
自然と高揚し、胸も高鳴る。そうだ、狩りは楽しいんだ。暗澹とした気持ちは消えなくとも、それだけは事実だった。
無数の傷を負った竜が、憤怒を最後の力に変えて、強く羽撃き空を舞う。棘を備えた長い尾を伸ばし、自らの命を狙う者を真正面に見据える。
ああ、よく知っている。それが彼女の最大の武器であると。軌道もわかる、避けるのは容易だ――わかった瞬間に、身体が固まっていなければ。
勇んでいたはずの心が、すっと冷たさを取り戻す。瞬く間に暗闇の中に引き戻され、ゆっくりと迫るその瞬間に釘付けになる。
言わば、生と死の狭間。ふたつの欲に揺れ動く自分を、ひと掴みで引き摺り堕としにかかる、残虐で陰湿な暴力。
ただ効率よく獲物を狩るため、効率よく身を護るため。そのために存在するはずのそれに、惹きつけられる瞬間だった。
いつだって望んでしまう。牙でも爪でも、棘でもなんでもいい。
この身を侵し、滅ぼさんとしてくれるなら、なんだって構わない。
苦い薬に縋って生きるより、甘い毒に溺れて、いつかは――。
小さな友人が、何かを叫ぶ声がした。しかしそれは体勢を崩した竜が地に墜ちる音に掻き消されてしまった。それでも、彼が何を言いたかったのかはわかった。
どうしようもなく嬉しくなって、強く弾き飛ばされ地を転がった先、全身を襲う苦痛の中で思わず笑ってしまうような自分は、愚か者なんだ。
***
「旦那さんのっ、ばか!」
ニャアニャアと声を荒げる獣人は、倒れ伏し呼吸を止めた雌火竜の側、座り込んで肩で息をしながら血を流している主人の膝を掴み、揺すり続けていた。
「どうして! どうしてニャ! 一瞬避けようとしてどうしてやめちゃうニャッ!? あからさまにワザと食らってこんな大怪我してっ、旦那さんのおばかー!!」
「わ、わかった、から……揺するのやめ……」
高揚の赤が差していた狩人の顔は、平常のそれを通り越して青になっていた。理由は単純、受けた傷から流れる血がまだ止まっていないからだ。
雌火竜の尻尾が直撃したのは右脇腹だった。装備のお蔭で傷は浅いが、棘は阻むことができなかった。棘を抜いた箇所からは、的確な止血処置も虚しく鮮血が滲み出していた。
盛大に打ちのめされはしたが、狩人は咄嗟に受け身はとっていた。本来ならこの程度はかすり傷で、持ち前の治癒力があればもう傷は塞がっていたはずだ。しかしやはり恐ろしいのは、尾の棘に含まれる毒に他ならない。それがあるからこそ、比較的危険度の低い陸の女王とは言え油断はできないものだ。
「もうっ、見てられないニャ! はやく解毒薬を……」
「持ってない」
「またニャ!? 何回やれば学習するんだニャーッ!」
ぷりぷりと怒る獣人は地団駄を踏み、今度は両手で狩人の膝を繰り返し容赦なく叩く。狩人は当然痛がるが、止めようとはしなかった。
大丈夫、致命傷じゃないからそのうち良くなる。狩人は半ば独り言のようにそう言った。すると獣人も少しずつ殴る手を止め、怒りも鎮めて俯いた。
「……ボク、気づいてるニャ。旦那さん、たまにこうして――」
そう言う獣人の声音は、どこか悲しそうだった。言葉に詰まる獣人に、狩人は一瞬だけ優しく笑いかける。
はっきりと断じるのは躊躇うだろう。傍から見れば、この馬鹿馬鹿しい行為はただ自らを殺さんとしているようにしか見えないのだから。
狩人は否定も肯定もせず、一瞬の先に目を逸らし、遠くの空を眺めながら気楽そうに言う。
「でも、ちゃんと依頼はこなせてる。リオレイアも仕留められただろ? 絶対ヤバイのは避けるし、後のことは考えてるから復帰もできる。だからいいじゃないか」
「よくないニャ! っていうかなんでニャ!? そもそも動機がわかんないニャ!」
「えー……興味があるから?」
「ニャンッ……き、興味? ますますわかんないニャぁ……」
困惑した様子の獣人に、狩人は「俺は研究者を辞めたつもりはないんだよ」と零す。狩人の過去を知らない獣人はただ首を傾げるだけだったが、狩人は構うことなく着ぐるみの頭をぽんぽんと撫でた。
一息ついた狩人の顔色は、先程よりは赤みも差して健康的に見えた。今一度傷の具合を確かめて、狩人はその場にゆっくりと立ち上がる。
「よ……っと」
「だ、大丈夫ニャ……?」
「うん、動けるし平気。血も止まってきてる。……目眩はするけど」
貧血程度で済んでよかった、と狩人は胸を撫で下ろす。当然痛みはまだ残っていたが、歩けない程ではない。頑丈な体に生まれてきたことは、“その人”に感謝しなければいけない数少ない事柄のひとつだった。
しかしこの調子では、ベースキャンプへ帰り着くだけで一苦労かもしれない。そう思った狩人は、顎に手を添え太陽のある方をちらりと見遣った。
「さて、そろそろあいつも来るだろうし。俺たちは一足先に上がりってことだな」
「……ニャ? 卵はどうするつもりニャ……えっ、あいつって」
狩人の口から零れた言葉を聞いて一瞬戸惑った獣人だったが、やがて一つの結論に考え至る。
脳裏に浮かんだのは、陽気な後輩狩人のあの太陽の如き笑顔。彼女が期待に満ち溢れた表情で飛行船に乗り、はるばるこの密林までやってくる姿まで、容易に想像できた。
「まさか、最初からそのつもりで……?」
「俺が運ぶとは一言も言ってないだろ?」
「んもう……後輩使ってズルするなんて、ワルい先輩ニャ」
「何がズルいもんか。端っからメインの報酬はあっち持ちだっての」
呆れ気味の獣人は、ゆっくりとベースキャンプに向かって歩き始めた主人に続いて脚を動かす。
この狩人にも何かしらの考えがあってのことなのだろうが、これでは面倒な仕事のためにあの健気な女の子がいいように使われているような気がしてならなかった。まあ、例え本当にそうだったとしても、実直なあの子なら迷わずここまで飛んでくるのだろうが。
キャンプまでの道のりの間、獣人は延々と帰ったらちゃんと診てもらうように狩人に言いつけていた。その姿はまるで小言の多い母親のようで、しかし狩人はそんなことは全く気にもしない様子で、彼の言葉を聞き流し続けていた。
狩人にとって、こんなことはもう日常になってしまっていた。この獣人が見ていないところでも、何度も何度も繰り返していた。
その度に、やはり“あの龍”の手が望ましいのだと自覚する。それでも目先の欲望に抗いきれず、こうして繰り返してしまうのだが。
依存はより深くなる。死んだほうがマシだと思うような苦痛がなければ、生きていられなくなるほどに。
いつかは身を滅ぼす――しかし今はまだ続いている。ならばその現実に甘えて、ただ欲に身を任せて生きるまでだ。
あまりに眩しい世の中なんだ、薄暗い影の中に居たっていいじゃないか。
そんなことを考えながら、狩人は生命の溢れる大地を踏みしめていた。
更新日:2023年11月19日05:52
<5036文字>
<5036文字>
水を得た獣
#3G / #Short / R-15:sexual
しょぼしょぼコネコチャンといきいきおじさんが話してるだけ。
***
タンジアの港には実に多種多様な人々が連日集う。貿易商に釣り人、そして腕の立つハンターたち。野心を胸に秘め、果てなき夢を追いかけて……彼もまた、そうしてここへ辿り着いた者の一人だった。
流浪の旅を終えてそれなりに時間の経った今は、そんなことはすっかり忘れてしまっているようだったが。
穏やかな潮風が褪せたような色味のブロンドを撫でる。毒狗竜素材のテンガロンハットから伸ばしっぱなしの髪を覗かせる男ハンター——ライは、悠然とした態度でタンジアの酒場へと足を踏み入れた。
背中には禍々しい色合いの猛毒を宿す双剣を携え、しかし彼自身はそれに似つかわしくもない呑気な表情でいた。
——こんな天気のいい日には、酒でも呑んでのんびり昼寝がしたいもんだ。それだというのに、気がつけば財布が随分と軽くなっているじゃないか。一体いつ、誰がこんなに使ったんだか。
いや俺だ。間違いなく遊びすぎた。いい加減何かしらクエストを受けなければいけない、んだが——。
どうにも気分が上がらない。そう言いたげな蝸牛の歩みで、ライは酒場内に構えられているレストランの展望席へと向かう。
クエストの契約金分に加え、腹ごしらえをする金が残っていたのは幸いだったと言えるだろう——過ぎたいつかの日にはそれすら残っておらず、皮肉屋の槍使いに借りを作る羽目になった。嫌味ったらしく不当な高い利子をつけられて絶望した日々は、彼にとっては思い出したくもない出来事だった。
これ以上気分を落としたくはない、とライは過った思い出を振り払いながら展望席へ繋がる短い階段を上る。開放感に満ちたこの空間は彼のお気に入りだ。
そしてやっと彼の視界に入った〝先客〟もまた、この場所を指定席としていた。
「おっと。先を越されたね」
ライが声を掛けたのは、この港では暑苦しそうにも見える白兎獣の装備に身を包み雌火竜の重弩を携えた女ハンター。ギルドには「ヴァシカ」という仮の名で通している彼女は、少し前に故郷を離れこの港を拠点としたばかりだった。
時期としては、港での仕事がやっと軌道に乗り始めたところ。誂えたばかりの真新しい装備も彼女の白い肌にはよく馴染んでいて、新たな狩猟生活を楽しんでいるらしい彼女はいつ見ても笑顔だった。
しかしこの日は違っていた。普段ならライを見つけるなり花のような笑みを零す彼女は、すぐ隣にわざとらしく彼が腰を落ち着けても浮かない顔をしていた。
「おじさん……今日はお休み?」
「うーん、いい感じの依頼がないか探しに来たってところかな」
「そうなんだ」
一度はライを見上げた視線を、ヴァシカは再びテーブルに落としてしまった。見るからに落ち込んでいる彼女に内心では気を揉みながらも、ライは普段の調子を保って話を続ける。
「そろそろ手持ちが危なくてね。そういうわけだから、悪いけど〝遊び〟のお誘いは今日は断らせてもらうよ」
「うん……」
——おや、珍しい。
いつもならすぐに食い下がってくるはずなのに。仕方ないなと言いつつ、二人きりになってじっくり話を聞いて慰めてあげようかと思っていたのに——あわよくばベッドの上で。
そんな下衆な考えを冗談めかして脳裏に巡らせつつも、ライは椅子にゆったりと座り直す。聞く姿勢をとった彼は、マスクの下で穏やかな笑みを浮かべながら声音をいっそう和らげた。
「なにかあった?」
ヴァシカはしばしの間返答に迷うように目線を泳がせる。しかし答えとなる事実はひとつであり、その戸惑いは自らを情けなく思うが故のことだった。
「クエスト、失敗しちゃった」
「おや……怪我はなかったかい」
「大丈夫。……モンスターを見つけられなくて、疲れてリタイアしたの」
「ああー、そりゃあ……大変だったね」
正直に語りながら不甲斐なさそうな表情になるヴァシカに、どんな言葉をかけるべきかとライは悩ましげに腕を組む。
ライは彼女と共に狩りをしたことはなかった。ギルド内での評価を聞く限りでは、腕前は十分にあると判断できた。
しかし以前から気がかりなのは、帰還がやけに遅いことだった。のんびり屋な彼女らしいと言えばそうだが、どうにも〝知識の乏しさ〟も原因としてはあるらしい。
狩猟の知識。モンスターの知識。それらがなければ効率的な狩りは成り立たない。少なくとも「ターゲットが立ち寄りそうなエリアを予測する」という過程なしでは、熟れた狩猟とは言い難いだろう。
彼女はまだ若い。伸び代なら無限大のはず。
ならばそれを支え、成長を見届けるのも先輩の仕事。ともあれこうも落ち込んでしまっては学びに繋がらなくなってしまう——と、ライは更に語調を優しいものに変えた。
「そんな日もあるさ。きっと今回は偶々運がなかったんだ、次は見つけられるよ」
普遍的な励ましに、ヴァシカは少しだけ顔を上げた。しかしすぐにまた俯いて、今度は更に声を細らせてしまった。
「でも……ひとを怪我させちゃった。どうしよう」
「うん? どういうこと?」
話が見えなくなったライは小首を傾げる。あくまでもヴァシカが自然と語るのを待ちながら、すっかり小さく縮こまっている彼女の背を優しく撫でた。
自分ひとりの失態を恥じるだけでなく、彼女はなにやら悔いている。彼女は人命に関わるような緊急性の高い依頼を受けることはないはずで、それはつまり自身の悠長な性格を理解しているからだと思われたのだが。
「わたしが帰還してすぐに、代わりに狩ってくるって言ってくれたひとがいたの。剣士の男のひと……」
「その人が怪我を?」
「うん……命は無事だったけど、火傷でボロボロになっちゃった。モンスターも獲り逃したって……」
成る程、とライは唸った。聞いた限りでも情報を組み合わせれば、なんとも納得の行く流れになるようだ。
ヴァシカには特段の華やかさはなかったが、持ち前のおおらかさと人懐こさ、そして色白でややふくよかな体つきと素朴な愛くるしさから、港のハンターたち——特に一部の男性からは人気があった。港ではいつの間にやら男たちに囲まれてちやほやされている、そんな〝花〟なのだ。
彼女が落ち込みながら帰還したならば、そういった紳士たちが放っておく訳がない。我先にと名乗りを上げ、彼女の心を掴むべく奮起することだろう。……此度においては下心が裏目に出たか、一人の男が儚くも燃え尽きる結果となったようだが。
「火傷、か。相手はなんだったんだ?」
「リオレウス。火山を縄張りにしているの」
「ふぅむ。確かにヤツはしっかり準備していかないと、剣士にはキツい相手になるかもしれないな」
〝空の王者〟として知られる火竜。地上に引きずり降ろす術を用意していなければ、ご自慢の飛行能力に翻弄されて灼熱のブレスで丸焦げになること請け合い。そんな知識は、新米でもない限りハンターにとっては常識のはずだ。
馬鹿な男もいたものだ、とライは空を仰ぐ。
いいところを見せたいと熱くなる気持ちはわからなくもないが、それで彼女をより消沈させてどうする。まったく愚かしい話だ——。
呆れ返っているライの心内を察する余裕さえないらしいヴァシカは、感じた責任からか潤んだ声になってしまった。
「わたしが最初からリオレウスを見つけられていたら。わたしはガンナーだからそんなに苦労しないし、なによりあのひとはあんなひどい怪我しなかったかもしれないのに……」
ヴァシカの悔悟の情が染み入るような声を聞きながら、ライは彼女の細い肩にぽんと手を置いた。そこには最早彼女の取り巻きが見せるような邪な気持ちは込められておらず、幼い子を諭すような思いだけが乗せられていた。
「あまり責任を感じすぎるな。過ぎてしまったことは変えられないし、代わりに行った彼の準備不足も原因としてあるはずだ」
「……でも」
「大丈夫さ。諦めずにもう一度、自分で挑戦してみたらどうだ? もちろん準備は念入りにね」
顔を上げたヴァシカに、ライはにこりと笑いかける。まるい瞳を涙で潤ませていたヴァシカの暗い面持ちが、密かに想いを寄せる相手の優しい笑顔を前にほんのりと明るさを取り戻した。
ところがそれすらも束の間。ヴァシカはまたすぐに表情を曇らせ、手元にまで目線を落としてしまう。
「そうしたかった、んだけど」
「ん?」
これでも駄目か、と思う前にライは僅かに身を乗り出し、彼女の心に残った最後の棘に耳を傾けた。
それは確かに、普段は気丈な彼女を沈めてしまうには十分なものであった。
「リオレウス……手負いになって、かなり凶暴化してるらしいの。火山の環境も不安定になってきたからギルドが制限をかけてて……わたしのランクじゃ、もうクエストは受けられない」
——おやおや。ガンナーの彼女の手も届かないところへ行ってしまうとは、ヤツはなかなかに意地悪な竜のようだ。これではやりきれない思いに苛まされてしまうのも已む無しか。
やり直すことさえ許してはもらえない。その苦しみは痛いほどに己の身が知っている——。
「……ううむ。まあ、そうなってしまったものは仕方がない。キミは気持ちを切り替えて、モンスターの行動を勉強し直すといい。次こそ逃さないようにね」
ライは終始落ち着いた声音で、ヴァシカを励まそうと努めた。その思いが通じたのか、ヴァシカはやっと微笑みを見せる。
「うん。落ち込んでばっかりじゃだめだよね」
「その意気だ。俺が知っていることでよければいくらでも教えるから、今度また時間をとってじっくり話そうか」
「ありがとう、おじさん。えへ」
いつものようにふにゃりと笑ったヴァシカを見て、ライは碧色の目を細めた。
こうしているときの彼女はまさに純真無垢で、この世の穢れなどひとつも知りはしないかのようだ。どう抑えていたって、醜い欲望の一つや二つ飛び出してしまいそうになる。
——いけない。己が何者であるかなど、彼女には無縁でなくてはならない。誰にでもそうしているように。
彼女は特別などではない。もう誰も、特別には——。
ライはゆっくりと瞬きをしてから新鮮な空気を吸う。そうして切り替えた途端に、またひとつ純な欲求が身を駆け抜けた。
求めていたものが目の前にある。それにやっと気付いたライは、長らくの暇に終止符を打つことに決めた。
「……どういたしまして。じゃあ、俺は仕事の準備をするから。またな」
「うん。気をつけてね」
ライは立ち上がり、元気を取り戻したヴァシカの方を一瞥してその場を立ち去ろうとする。ヴァシカは手をひらひらと振って、そんな彼を見送るつもりでいた。
しかしライはふと立ち止まり、もう一度ヴァシカの方を振り返って問いかける。
「一つ聞き忘れた」
その声音は先程までとはまるで違っていた。適度に開いた二人の距離が、ヴァシカにそれを悟らせることを拒んだ。
彼の声はどことなく弾んでいた。まるで何かを期待するかのように。
「そのリオレウスに挑もうとしているハンターはいたか?」
「え、ううん。ひどい怪我の噂が広まったからかな、まだ誰も受けようとしてないみたい」
「そうか。ありがとな、仔猫ちゃん」
わざとらしくヴァシカをそう呼んだ彼は、手を振り返して再び彼女に背を向けた。そのまま展望席の階段を下りて、彼は真っ直ぐに酒場を去っていった。
そんな彼の背中を見送って、それでもなお問いかけの意図は汲めなかったらしいヴァシカは、不思議そうに小首を傾げていた。
***
馴染みの毒狗竜装備も、こういったときばかりは彼の装甲となることを辞める。命あらずとも己には務まらないと理解するのか、革の色味がどことなく頼りなく映る。
代わりに彼が手に取ったのは、より重く、より頑丈な〝蒼〟。それは夜空を舞う王者の魂を宿し、身に纏えば彼の情熱に呼応して秘められた力を生みだす。一分の隙もなく、彼の中で鼓動を重ねる存在をより完成へと近づけた。
彼は迷いなくとっておきの得物を手にした。幻想的な光を放つ双つの刀身を見つめ、塵すら残さぬその爆発的な力を発揮せんと奮い立つ様を確かめる。
己が甲殻、己が爪牙。皆、準備は整っている。あとは舞台へと赴くだけ。
彼は再び酒場へと向かう。食事はカウンターで手早く済ませ、代金を支払うなり身を翻して受付へと向かっていく。
担いだポーチには最低限の食糧、そして薬が少々。たったこれだけでも彼には重たすぎるほどだった。
ハンターならば当たり前の対抗策など、選択肢にすら上らない。〝彼〟にはそれで十分なのだ。
——あの子の話を聞けてよかった。なんともいい話だった。ああ、この上ない。一度誘惑されてしまえば、もうそのことしか考えられないほどだ。
なんていい女だろう。帰還した暁にはたっぷりと礼をせねばならないな——。
「……火山に手負いの火竜がいると聞いた。クエストは出ているか」
挨拶もなく開口一番に受付嬢にそう告げて、年若い彼女が一瞬困惑するのも構わずに〝彼〟は続ける。
「すぐに出発する。手配を頼む」
依頼の詳細を確かめることすらなく、〝彼〟はカウンターに契約金を置いた。急いで手配を済ませた受付嬢は、既に出発口へ向かっている〝彼〟の背へと控えめに激励の言葉をかけた。
〝彼〟は海に生きる獣。鎧の奥から覗く眼光は、さながら水を得たかのよう。激流を宿した深い色のそれは、どこか恐ろしく、そして愉しげに輝いた。
未来永劫変わることのない性。それは永遠に付き纏い疼き続ける、血に強く刻まれた本能だった。
狩りたい。より強く、より猛る生命を、この手で。
それが火山にいることを知らせてくれたかのハンターのことなど、もはや眼中にはない。これから始まるのは彼女のための義戦などではなく、燃え盛る炎と渦を巻く荒潮のような、抑えきれない激情をぶつけ合うための血戦だ。
——ああ、極上の獲物だろうな。傷つき、人の血を浴びて、怒りに我を忘れた竜は。
この双剣で斬り伏せる瞬間が楽しみでたまらない。
更新日:2023年11月19日05:52
<5851文字>
<5851文字>
※ 作品の分類 ※
《 カテゴリ 》
大まかに分類しています。
目次ページでタイトルNoの上あたりに表示されています。
Information … このサイトについての情報。
FanFiction … モンハン二次創作のみ。
Original … 一次創作。実際公開するかは未定。
《 タグ 》
単発で読める短い話なら #Short 、続き物をやるならシリーズタグを付ける感じです。
二次創作の場合は元作品のシリーズ略称がつきます。
一覧はあるけど目次の下の方なので、どちらかというと本文から似た作品を探すのに使う感じになるかも。
作品はすべて本文を畳んだ状態で、最初にタグとキャプションが表示されます。
《 R指定 》
ちょっとでもそういう要素がある作品には指定を入れています。R-18になったらパスワードかなんかかけると思います。
表現の方向性によって色分けされています。
sexual … 性的表現。少しでもスケベ目線があればR-15。
gore … 残酷表現。流血程度なら指定はつきません。
更新日:2023年11月19日05:47
<457文字>
<457文字>
⚠ はじめに ⚠
ここは書いたものなどをひとまず放り込むための作品置き場です。
一次創作と二次創作がごちゃまぜで更新されます。
そもそも更新はほぼないかもしれない。あっても不意に消えたりするかも。
本来書いても公開するかは気まぐれな人間なので、ご了承ください。
当サイトにおける二次創作(FanFiction)はすべて『モンスターハンター』シリーズの二次創作となっております。
個人の趣味による制作物であり、公式様とは一切関係ありません。
作者によるオリジナルキャラクター(マイハン、モブキャラ等)が多数登場します。ご注意ください。
また、性質上ストーリーのネタバレを多く含みます。各話に関連シリーズのタグを入れておりますので参考にしてください。
該当シリーズから見て過去の作品のネタバレがあることも多いです。
管理人への連絡は下記のSNSへお願いします(何らかのFediverse上のアカウントが必要です)。
メイン:@i-nonaka.net@C
二次創作:@hunterlife.net@diakg
当サイトはてがろぐで動作しています。
スキンは 小説用スキン を使用させていただいています。こちらのスキンには 小説ビューワーテンプレート が組み込まれています。
右側の『スタイル』のタブから、背景色や文字サイズ、フォントや組版の変更が可能です。