寂しさと共に生きていく
#World
/
#Short
生者は死者を語る。
2023/11/23 いい兄さんの日ネタ。自ハンと自編纂者が喋ってるだけ。
時系列はゾラ捕獲作戦のちょっと後。
⚠ 人の死に関する表現があります
***
本文を読む
しとしとと降り注ぐ雨は、そびえる古代樹の葉を濡らしながら新大陸の地へと落ちていく。
生命力に満ちた巨大なモンスターたちも、暗闇の中に息をひそめ過ごすような静かな夜だった。調査団からあてがわれた自室の片隅で、大きな水車を転がす滝の音を聴きながら、ランプの灯に照らされる彼は目を伏せて机に突っ伏していた。
調査拠点アステラからは、いつも誰かの気配がした。夜も更ける頃だがこれから調査に出掛ける者もいる。彼らの活気溢れる気配は、マイハウスでひとり静かに過ごしている間も彼の胸をざわつかせた。
傍らのマグカップから立ちのぼる湯気は、少しずつ細くなっていった。柔らかな金色の髪の間から
輝竜石
(
ドラグライト
)
色の瞳を覗かせ、湯気が細るその様子を見つめていた彼は、ぼんやりとしたまま身を起こしてマグカップを手に取った。
と、そんなときだった。部屋のほうに人影が近づいてくる様子に気づいた彼は、マグカップを口元へ運ぶ手を止めてそちらに注目した。
人影の主の正体は、足音だけですぐにわかった。彼にとってはまだどこかよそよそしい、仕事の上での大切な相棒だ。彼女の姿が見えた瞬間、同じ色の瞳同士が互いに見つめあった。
「……まだ起きていたの」
部屋の入口にたどり着くなりため息をついたその女性は、ここ新大陸へ調査のため派遣されたギルドの精鋭『新大陸古龍調査団』の一員。五期団の編纂者カミラ。一つに束ねた銀色の長い髪は、外を通ったときに雨に降られたからか、少しだけ濡れていた。
いつも通り不機嫌そうな表情で雨粒を払う彼女は、訪ねた部屋の隅でマグカップ片手に椅子に座っている気怠げなハンター、アレクシウスとバディを組んでいる。新大陸に来て初めて共に仕事をして、やっとお互いの人となりを掴んできた頃合だった。
それでも今のアレクシウスには相棒の行動がよく理解できず、厚い前髪に隠れていない方の目をぱちくりとさせた。
「寝てるかもしれないのに部屋に来たんだ?」
「ええ、まあ。預けっぱなしの資料、取りに来ただけだから」
「ああ、そういうこと」
合点がいったようでアレクシウスは頷きながら、机のそばの床にそのまま積まれた本の小山をちらりと見た。そのどれかが彼女の探す資料であることに違いないが、どれがまさにそのものなのかはアレクシウスには見当もつかなかった。
カミラは相棒の視線を追いかけてから、ハア、とまた一段大きなため息をつく。ただ預け物を取りに来ただけとは言ったが、彼が相手では多少骨が折れるのは覚悟していたことだった。整頓を頼んだわけでもなくただ押し付けてしまったものなので、カミラの自業自得ではあるのだが。
カミラは書物の山に歩み寄り、その前にかがみ込みながら、隣でマグカップの中身を啜るアレクシウスに呆れ気味な声を投げかけた。
「体が資本でしょう。明日は朝早いのに、寝なくていいの?」
「なんか眠れなくてさ。昔から寝るのが下手なんだ」
「ハンターとしての基礎もなってないのに、よくここまで来れたわね」
「あはは。まあ、幸運だったのは否定しないよ」
明日は陸珊瑚の台地まで調査に赴くことになっている。熔山龍が大峡谷を抜けて以来大々的に調査が進められているが、まだたくさんの未知と危険が眠っている場所だ。こんなハンターに命を預けて大丈夫なのだろうか、とカミラが一抹の不安を感じ取る中、アレクシウスは至って気楽そうに構えていた。
会話の切れ間にアレクシウスは再びマグカップの中身を啜る。半分ほどまで減った中身は、もうアイルーでも舌を火傷しない程度の温度になっていた。
一口を飲み下したアレクシウスは、ゆっくりと瞬きをしてから視線を床に落とし、ポツリと呟いた。
「眠るのが怖いのかも。情けない話、独りでいると不安でさ」
「……子供みたいね」
「まあ、ね。いい歳して、眠れない夜はよく兄さんの部屋を訪ねていたよ。兄さんのそばに居ると、不思議と落ち着いて……よく眠れたから」
アレクシウスは両手でマグカップを支え、静かに揺れる中の茶をじっと見つめる。視界の端に映ったその姿に、呆れた様子だったカミラは次第に目を丸くして、やがて資料を探す手を止めた。
——彼と初めて会ってから一年は経っただろうか。そのきっかけは血で繋がったかすかな縁だった。三十年もの間互いの顔も知らないでいた、異腹のきょうだい。それでも家族は家族だと、大切な存在だと彼は言った。
そんな彼が〝家族〟の話をしているのは、今日が初めてのことだった。
出会いは唐突の訪問だった。一年ほど前のこと、カミラが所長として運営していた研究所の扉を、アレクシウスはひとりで叩いた。
ぽかんとしている姉に向かって彼は名乗り、単刀直入に要件を伝えた。一緒に新大陸に行かないか、と。
カミラの当然の困惑を受けて、アレクシウスは改めて立場を明かした。ハンターで、しかし本業は画家。そして『ティアベルグ家』の現当主。それが彼、アレクシウス・ツー・ティアベルグの身分だった。
カミラは姓を名乗りこそしないが、自分にティアベルグという辺境の地を治める領主家系の血が流れていることは知っていた。その家系の繋がりは、親の代の不徳に起因する一家離散によって、とっくに失われているということも。
しかし突然現れた末の弟は、まさにその家系がもつ屋敷に生まれ育ち、貴族としての教育を受け、名を継ぎ守る立場にあり。家系と関わりの深いギルドによる証明までなされた、疑いようもない存在だった。
——今となっては、カミラの目には『ちゃらんぽらんで仕事もしないただのダメ男』という風にしか映っていないのだが。
末っ子らしく甘やかされて育ってきたのだろうか。彼の語る〝兄さん〟とはおそらく先代当主の長男のことだが、いくら歳が離れていると言っても実の兄弟を甲斐甲斐しく世話するものだろうか。幼い頃のことで会話した記憶も残っていないが、その男がとんだ兄バカであったことは想像に難くない。
呆れを通り越して苛立ちをも覚えたカミラは、やや語気を強めた。
「せめて寝る努力をしたらどうなの。ベッドで横になるとか、目を瞑るとか」
「ふふ。そうだな、これ飲み終わったらそうする」
アレクシウスはカミラの苛立ちを意にも介さず、マグカップをゆったりと揺らして茶の香りを楽しんでいる。
カミラは諦めを表情に滲ませた。何を言っても無駄だと思わせるようなマイペースな人間は、彼女が最も苦手とするタイプだった。
ふと、カミラの鋭い嗅覚が漂う香りをとらえた。アレクシウスの飲む茶の香りだと、カミラにはすぐにわかった。
どこかで嗅いだことがあるような、しかしこれと言って見当のつかない香り。良い香りであることには違いなく、それなりに値段のする茶葉なのだろうと思えた。ここ新大陸で作られたとは考えにくい。つまり、彼が持ち込んだ私物なのだろう。
学者の性か、一抹の興味もそのままにはしておけない。カミラはアレクシウスの方へ向き直り、訊ねた。
「ねえ、それってなんのお茶? どこかで嗅いだような香りだけど」
「え、その距離からわかるの。姉さんの鼻どうなってるのさ」
「結構強い香りでしょう、それ」
言われてみればそうかもしれない、とでも言うような曖昧な表情で天井に一度視線をやってから、アレクシウスは彼女の疑問に答えた。
「落陽草だよ。いい香りだろ」
「……日陰に生えてる、あの?」
「そう。それと他にもいくつか加えたブレンドハーブティー。ハチミツも入れてある」
落陽草といえば、いい香りはするが薬やにおい消しに使うのが主なところだ。葉だけでなく花や根にも用途があり、それらはハンターの生活の中にも広く取り入れられている。それを茶にするというのは、カミラが知る限りではあまり馴染みがなかった。
どうしても置いていけなくて持ってきたんだ、とアレクシウスは続ける。暗がりの中でカップの中を見つめる彼は、穏やかな、どこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
「兄さんの好きな香りだった。俺も一番好きだ」
——ああ、また〝兄さん〟か。カミラは表情を変えることなく、ぼんやりとただそう思った。
カミラは弟の気持ちが少しだけ理解できた気がして、何も言わずに本の山へと再び向き直った。彼はただ、浸りたいのだろう。茶の香りが引き起こす感傷の波、そこに見える大切な家族の面影を語る時間というものに。
少しばかりの無音の間のあと、アレクシウスはカミラへと訊ねた。
「姉さんって兄さんと会ったことあるんだっけ。ほら、家を出る前とか」
「……どうかしら。家を出てもう三十年よ、覚えてない」
「それもそうか」
わかりきった答えを聞いて、アレクシウスはあからさまに残念そうな表情を浮かべた。不器用同士ではどうにもうまくいかないと、お互いに諦めているかのような間が続く。
そんな中で、ふとカミラは資料を探す手を止めた。
「名前くらいは知っている。リーンハルト兄さん。先代の当主でしょう」
「うん、そう」
アレクシウスの語調は少し明るくなった。まるで姉が会話を続けてくれること、それそのものを喜ぶかのようだ。
対してカミラは、名前だけではないかの人の記憶を思い出しては、どう言葉にするかを悩んでいる。浮かび上がった純な思いをやっと絞り出したとき、その声は不自然に震えていた。
「……残念だったわね。腕の立つハンターだったんでしょう」
リーンハルト・ツー・ティアベルグ。その名前を改めてカミラが聞いたのは数年前。ちょうど砂漠の近辺に滞在していた仕事仲間が、ギルドの要請を受けて現場の事後調査へ駆り出されたときだった。
調査を終えて帰還した仕事仲間は、躊躇いがちにもその凄惨さを語った。狩猟中の事故として片付けるには、あまりに惨い有様だったと。
原因となったモンスターの残した痕跡から、そのモンスターは正常な状態ではなかったと断定された。ウイルスに侵されていたのだ。狂竜ウイルス——原因不明の災厄だったそれは優秀なハンターたちの活躍によって解明されたが、研究は今なお続けられている。感染したモンスターの恐ろしさは、現象発生から今までずっと変わらない脅威だ。
ウイルスによってまともな精神状態を保てなくなったモンスターの不意打ちを受け、亡骸もほぼ残らないほどに喰い散らかされていた。それがリーンハルトというハンターが迎えた最期だったという。
顔も思い出せない、ほとんど他人のような兄の話だ。それでもカミラが話を聞いたとき、その胸には締め付けられるような感覚があった。
今彼女の目の前で口元は微笑んだまま俯いている末の弟は、もっと長い時を兄と過ごしたのだろう。その目には、未だ飲み込むことのできない悲しみが浮かんでいた。
「俺が六つ位のときかな。お爺様が突然亡くなったんだ。それからは兄さんが、俺にとって唯一の家族だった」
「……そうなの」
「優しかった。導いてくれた。兄さんだって大変だっただろうに、いつも俺を気にかけててさ。今こうしてハンターとして出世できたのも、間違いなく兄さんのおかげなんだ」
「…………」
「お爺様の死から立ち直れたのだって、兄さんがいたからだ。ずっと一緒に支えあって生きていこうって……約束していた」
既に崩壊した家系に生まれた末弟。そんな彼がここまで歩んでこれたのは、確かに長男たる彼の功績だったのだろう。
アレクシウスが生まれたのは、崩壊の引き金となった父親が行方知れずとなったあとだ。そのとき辺境の屋敷に住んでいたのは、当時の当主だった祖父と歳の離れた兄、そして物言わぬ人形のような生みの母親。あとは何匹かの給仕のアイルーだけだった。
今となっては、ただ孤独だけが彼の心に残されていた。
「いいひとほど、はやく逝ってしまう。どうしてなんだろうな」
アレクシウスはまたマグカップの中身を一口啜った。もう湯気は立ちのぼっておらず、マグカップの底の色も見え始める頃だった。
冷めきってしまう前に、早く飲み終えていい加減に眠らなければ。アレクシウスの脳裏にはそんな考えが過ったが、そのときがやってくるのも耐え難く感じて、残り僅かなハーブティーをゆらゆらと転がしては香りを立たせようとした。
静かな時間が過ぎていく中で、アレクシウスはただ淡々と語る。
——戻ってきたのは片腕だけだった。それでも故郷の墓に入れてあげられたのだから、全部砂漠の塵となってしまうよりはきっとマシだったはずだ。
兄さんは俺が描く絵も好きでいてくれた。買い手のつかない落書きも豪華な額縁に入れて飾ろうとするからさ、ちょっと恥ずかしくて。ああでも、新大陸で見たものを描いてみせたら喜ぶだろうなあ。火の山を背負う龍の姿とか、きっと気に入ってくれたと思う。
冒険の話も聞いてくれたらよかったのに。せっかくこんなに遠くまで来ていろんなものを見たのに、それを語って聞かせたい人も、もういない——。
「……はは。さみしい、だなんて。子供みたいで呆れるよな、本当に……」
自嘲するように笑って、アレクシウスは力なく首を振った。まるで叱責を待つような態度で顔を上げ、普段通りの姉の言葉を待つ。
カミラはやっと見つけた目的の本を小脇に抱え、その場に立ち上がってからハアとため息をつく。アレクシウスはそちらを見ることなく、残りのハーブティーをくいと飲み干した。冷めてしまった茶を彼が飲み下すのを見届けて、カミラは口を開いた。
「遺された者は寂しいものよ。いつだって」
その声音はアレクシウスが聞いたことのない、柔らかな響きを持っていた。
アレクシウスは目を丸くして、思わず姉の方を見る。しかしカミラは表情を変えることなく続けた。
「その寂しさがあるから、大切な人のぬくもりを忘れないでいられるの」
ぽかんとしているアレクシウスを、カミラはただじっと見つめ返す。カミラの表情は一見するといつもの仏頂面だが、アレクシウスには普段とは全く違うものが見えていた。
哀悼の意が染み込んだその表情は紛れもなく、寂しさを茶化して薄れさせたがる孤独な弟のためのものだ。飲み込みきれない思いを抱えたまま、独りであっても前へ進むことを決意し、故郷からはるか遠い新大陸へ渡った家族のため。彼のための励ましと慰めだ。
カミラは幼い日に道を分かたれた兄のことなど、何も知らずにいる。それでも今そばに居る家族と、想いを分かち合うことはできた。
アレクシウスはゆっくりと目を細める。こみ上げた思いを言葉にするのは、子供のように振る舞いながらでは難しいことだった。
「姉さんって……思ったより人間なんだ」
「当たり前でしょう。失礼なこと言わないで」
「ご、ごめん」
アレクシウスの一言で、カミラはいつもの仏頂面に戻ってぷいとそっぽを向いた。抱えた本の背表紙の汚れを払うような仕草をしながら、部屋の入口側へ向けて踵を返す。
その一瞬にアレクシウスの視界に映ったのは、ランプの微かな光だけでも手に取るようにわかる、不器用な姉の照れくさそうな横顔だった。
「早く寝たら? お茶、飲み終えたんでしょう」
「ああ、うん。そうだな」
「まったく。命預けてるんだから……しっかりしてよね」
その一言を最後に、カミラは部屋を出ようとする。気がつけば夜の細い雨は止み、雲の隙間から月明かりが覗いていた。
アレクシウスはその背に向けて、微笑みながら一言を返した。その声色にはもう、心を引き摺るような哀傷は残っていなかった。
「任せてよ。ちゃんと守るからさ」
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更新日:2023年11月23日00:00
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寂しさと共に生きていく
#World / #Short
生者は死者を語る。
2023/11/23 いい兄さんの日ネタ。自ハンと自編纂者が喋ってるだけ。
時系列はゾラ捕獲作戦のちょっと後。
⚠ 人の死に関する表現があります
***
しとしとと降り注ぐ雨は、そびえる古代樹の葉を濡らしながら新大陸の地へと落ちていく。
生命力に満ちた巨大なモンスターたちも、暗闇の中に息をひそめ過ごすような静かな夜だった。調査団からあてがわれた自室の片隅で、大きな水車を転がす滝の音を聴きながら、ランプの灯に照らされる彼は目を伏せて机に突っ伏していた。
調査拠点アステラからは、いつも誰かの気配がした。夜も更ける頃だがこれから調査に出掛ける者もいる。彼らの活気溢れる気配は、マイハウスでひとり静かに過ごしている間も彼の胸をざわつかせた。
傍らのマグカップから立ちのぼる湯気は、少しずつ細くなっていった。柔らかな金色の髪の間から輝竜石色の瞳を覗かせ、湯気が細るその様子を見つめていた彼は、ぼんやりとしたまま身を起こしてマグカップを手に取った。
と、そんなときだった。部屋のほうに人影が近づいてくる様子に気づいた彼は、マグカップを口元へ運ぶ手を止めてそちらに注目した。
人影の主の正体は、足音だけですぐにわかった。彼にとってはまだどこかよそよそしい、仕事の上での大切な相棒だ。彼女の姿が見えた瞬間、同じ色の瞳同士が互いに見つめあった。
「……まだ起きていたの」
部屋の入口にたどり着くなりため息をついたその女性は、ここ新大陸へ調査のため派遣されたギルドの精鋭『新大陸古龍調査団』の一員。五期団の編纂者カミラ。一つに束ねた銀色の長い髪は、外を通ったときに雨に降られたからか、少しだけ濡れていた。
いつも通り不機嫌そうな表情で雨粒を払う彼女は、訪ねた部屋の隅でマグカップ片手に椅子に座っている気怠げなハンター、アレクシウスとバディを組んでいる。新大陸に来て初めて共に仕事をして、やっとお互いの人となりを掴んできた頃合だった。
それでも今のアレクシウスには相棒の行動がよく理解できず、厚い前髪に隠れていない方の目をぱちくりとさせた。
「寝てるかもしれないのに部屋に来たんだ?」
「ええ、まあ。預けっぱなしの資料、取りに来ただけだから」
「ああ、そういうこと」
合点がいったようでアレクシウスは頷きながら、机のそばの床にそのまま積まれた本の小山をちらりと見た。そのどれかが彼女の探す資料であることに違いないが、どれがまさにそのものなのかはアレクシウスには見当もつかなかった。
カミラは相棒の視線を追いかけてから、ハア、とまた一段大きなため息をつく。ただ預け物を取りに来ただけとは言ったが、彼が相手では多少骨が折れるのは覚悟していたことだった。整頓を頼んだわけでもなくただ押し付けてしまったものなので、カミラの自業自得ではあるのだが。
カミラは書物の山に歩み寄り、その前にかがみ込みながら、隣でマグカップの中身を啜るアレクシウスに呆れ気味な声を投げかけた。
「体が資本でしょう。明日は朝早いのに、寝なくていいの?」
「なんか眠れなくてさ。昔から寝るのが下手なんだ」
「ハンターとしての基礎もなってないのに、よくここまで来れたわね」
「あはは。まあ、幸運だったのは否定しないよ」
明日は陸珊瑚の台地まで調査に赴くことになっている。熔山龍が大峡谷を抜けて以来大々的に調査が進められているが、まだたくさんの未知と危険が眠っている場所だ。こんなハンターに命を預けて大丈夫なのだろうか、とカミラが一抹の不安を感じ取る中、アレクシウスは至って気楽そうに構えていた。
会話の切れ間にアレクシウスは再びマグカップの中身を啜る。半分ほどまで減った中身は、もうアイルーでも舌を火傷しない程度の温度になっていた。
一口を飲み下したアレクシウスは、ゆっくりと瞬きをしてから視線を床に落とし、ポツリと呟いた。
「眠るのが怖いのかも。情けない話、独りでいると不安でさ」
「……子供みたいね」
「まあ、ね。いい歳して、眠れない夜はよく兄さんの部屋を訪ねていたよ。兄さんのそばに居ると、不思議と落ち着いて……よく眠れたから」
アレクシウスは両手でマグカップを支え、静かに揺れる中の茶をじっと見つめる。視界の端に映ったその姿に、呆れた様子だったカミラは次第に目を丸くして、やがて資料を探す手を止めた。
——彼と初めて会ってから一年は経っただろうか。そのきっかけは血で繋がったかすかな縁だった。三十年もの間互いの顔も知らないでいた、異腹のきょうだい。それでも家族は家族だと、大切な存在だと彼は言った。
そんな彼が〝家族〟の話をしているのは、今日が初めてのことだった。
出会いは唐突の訪問だった。一年ほど前のこと、カミラが所長として運営していた研究所の扉を、アレクシウスはひとりで叩いた。
ぽかんとしている姉に向かって彼は名乗り、単刀直入に要件を伝えた。一緒に新大陸に行かないか、と。
カミラの当然の困惑を受けて、アレクシウスは改めて立場を明かした。ハンターで、しかし本業は画家。そして『ティアベルグ家』の現当主。それが彼、アレクシウス・ツー・ティアベルグの身分だった。
カミラは姓を名乗りこそしないが、自分にティアベルグという辺境の地を治める領主家系の血が流れていることは知っていた。その家系の繋がりは、親の代の不徳に起因する一家離散によって、とっくに失われているということも。
しかし突然現れた末の弟は、まさにその家系がもつ屋敷に生まれ育ち、貴族としての教育を受け、名を継ぎ守る立場にあり。家系と関わりの深いギルドによる証明までなされた、疑いようもない存在だった。
——今となっては、カミラの目には『ちゃらんぽらんで仕事もしないただのダメ男』という風にしか映っていないのだが。
末っ子らしく甘やかされて育ってきたのだろうか。彼の語る〝兄さん〟とはおそらく先代当主の長男のことだが、いくら歳が離れていると言っても実の兄弟を甲斐甲斐しく世話するものだろうか。幼い頃のことで会話した記憶も残っていないが、その男がとんだ兄バカであったことは想像に難くない。
呆れを通り越して苛立ちをも覚えたカミラは、やや語気を強めた。
「せめて寝る努力をしたらどうなの。ベッドで横になるとか、目を瞑るとか」
「ふふ。そうだな、これ飲み終わったらそうする」
アレクシウスはカミラの苛立ちを意にも介さず、マグカップをゆったりと揺らして茶の香りを楽しんでいる。
カミラは諦めを表情に滲ませた。何を言っても無駄だと思わせるようなマイペースな人間は、彼女が最も苦手とするタイプだった。
ふと、カミラの鋭い嗅覚が漂う香りをとらえた。アレクシウスの飲む茶の香りだと、カミラにはすぐにわかった。
どこかで嗅いだことがあるような、しかしこれと言って見当のつかない香り。良い香りであることには違いなく、それなりに値段のする茶葉なのだろうと思えた。ここ新大陸で作られたとは考えにくい。つまり、彼が持ち込んだ私物なのだろう。
学者の性か、一抹の興味もそのままにはしておけない。カミラはアレクシウスの方へ向き直り、訊ねた。
「ねえ、それってなんのお茶? どこかで嗅いだような香りだけど」
「え、その距離からわかるの。姉さんの鼻どうなってるのさ」
「結構強い香りでしょう、それ」
言われてみればそうかもしれない、とでも言うような曖昧な表情で天井に一度視線をやってから、アレクシウスは彼女の疑問に答えた。
「落陽草だよ。いい香りだろ」
「……日陰に生えてる、あの?」
「そう。それと他にもいくつか加えたブレンドハーブティー。ハチミツも入れてある」
落陽草といえば、いい香りはするが薬やにおい消しに使うのが主なところだ。葉だけでなく花や根にも用途があり、それらはハンターの生活の中にも広く取り入れられている。それを茶にするというのは、カミラが知る限りではあまり馴染みがなかった。
どうしても置いていけなくて持ってきたんだ、とアレクシウスは続ける。暗がりの中でカップの中を見つめる彼は、穏やかな、どこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
「兄さんの好きな香りだった。俺も一番好きだ」
——ああ、また〝兄さん〟か。カミラは表情を変えることなく、ぼんやりとただそう思った。
カミラは弟の気持ちが少しだけ理解できた気がして、何も言わずに本の山へと再び向き直った。彼はただ、浸りたいのだろう。茶の香りが引き起こす感傷の波、そこに見える大切な家族の面影を語る時間というものに。
少しばかりの無音の間のあと、アレクシウスはカミラへと訊ねた。
「姉さんって兄さんと会ったことあるんだっけ。ほら、家を出る前とか」
「……どうかしら。家を出てもう三十年よ、覚えてない」
「それもそうか」
わかりきった答えを聞いて、アレクシウスはあからさまに残念そうな表情を浮かべた。不器用同士ではどうにもうまくいかないと、お互いに諦めているかのような間が続く。
そんな中で、ふとカミラは資料を探す手を止めた。
「名前くらいは知っている。リーンハルト兄さん。先代の当主でしょう」
「うん、そう」
アレクシウスの語調は少し明るくなった。まるで姉が会話を続けてくれること、それそのものを喜ぶかのようだ。
対してカミラは、名前だけではないかの人の記憶を思い出しては、どう言葉にするかを悩んでいる。浮かび上がった純な思いをやっと絞り出したとき、その声は不自然に震えていた。
「……残念だったわね。腕の立つハンターだったんでしょう」
リーンハルト・ツー・ティアベルグ。その名前を改めてカミラが聞いたのは数年前。ちょうど砂漠の近辺に滞在していた仕事仲間が、ギルドの要請を受けて現場の事後調査へ駆り出されたときだった。
調査を終えて帰還した仕事仲間は、躊躇いがちにもその凄惨さを語った。狩猟中の事故として片付けるには、あまりに惨い有様だったと。
原因となったモンスターの残した痕跡から、そのモンスターは正常な状態ではなかったと断定された。ウイルスに侵されていたのだ。狂竜ウイルス——原因不明の災厄だったそれは優秀なハンターたちの活躍によって解明されたが、研究は今なお続けられている。感染したモンスターの恐ろしさは、現象発生から今までずっと変わらない脅威だ。
ウイルスによってまともな精神状態を保てなくなったモンスターの不意打ちを受け、亡骸もほぼ残らないほどに喰い散らかされていた。それがリーンハルトというハンターが迎えた最期だったという。
顔も思い出せない、ほとんど他人のような兄の話だ。それでもカミラが話を聞いたとき、その胸には締め付けられるような感覚があった。
今彼女の目の前で口元は微笑んだまま俯いている末の弟は、もっと長い時を兄と過ごしたのだろう。その目には、未だ飲み込むことのできない悲しみが浮かんでいた。
「俺が六つ位のときかな。お爺様が突然亡くなったんだ。それからは兄さんが、俺にとって唯一の家族だった」
「……そうなの」
「優しかった。導いてくれた。兄さんだって大変だっただろうに、いつも俺を気にかけててさ。今こうしてハンターとして出世できたのも、間違いなく兄さんのおかげなんだ」
「…………」
「お爺様の死から立ち直れたのだって、兄さんがいたからだ。ずっと一緒に支えあって生きていこうって……約束していた」
既に崩壊した家系に生まれた末弟。そんな彼がここまで歩んでこれたのは、確かに長男たる彼の功績だったのだろう。
アレクシウスが生まれたのは、崩壊の引き金となった父親が行方知れずとなったあとだ。そのとき辺境の屋敷に住んでいたのは、当時の当主だった祖父と歳の離れた兄、そして物言わぬ人形のような生みの母親。あとは何匹かの給仕のアイルーだけだった。
今となっては、ただ孤独だけが彼の心に残されていた。
「いいひとほど、はやく逝ってしまう。どうしてなんだろうな」
アレクシウスはまたマグカップの中身を一口啜った。もう湯気は立ちのぼっておらず、マグカップの底の色も見え始める頃だった。
冷めきってしまう前に、早く飲み終えていい加減に眠らなければ。アレクシウスの脳裏にはそんな考えが過ったが、そのときがやってくるのも耐え難く感じて、残り僅かなハーブティーをゆらゆらと転がしては香りを立たせようとした。
静かな時間が過ぎていく中で、アレクシウスはただ淡々と語る。
——戻ってきたのは片腕だけだった。それでも故郷の墓に入れてあげられたのだから、全部砂漠の塵となってしまうよりはきっとマシだったはずだ。
兄さんは俺が描く絵も好きでいてくれた。買い手のつかない落書きも豪華な額縁に入れて飾ろうとするからさ、ちょっと恥ずかしくて。ああでも、新大陸で見たものを描いてみせたら喜ぶだろうなあ。火の山を背負う龍の姿とか、きっと気に入ってくれたと思う。
冒険の話も聞いてくれたらよかったのに。せっかくこんなに遠くまで来ていろんなものを見たのに、それを語って聞かせたい人も、もういない——。
「……はは。さみしい、だなんて。子供みたいで呆れるよな、本当に……」
自嘲するように笑って、アレクシウスは力なく首を振った。まるで叱責を待つような態度で顔を上げ、普段通りの姉の言葉を待つ。
カミラはやっと見つけた目的の本を小脇に抱え、その場に立ち上がってからハアとため息をつく。アレクシウスはそちらを見ることなく、残りのハーブティーをくいと飲み干した。冷めてしまった茶を彼が飲み下すのを見届けて、カミラは口を開いた。
「遺された者は寂しいものよ。いつだって」
その声音はアレクシウスが聞いたことのない、柔らかな響きを持っていた。
アレクシウスは目を丸くして、思わず姉の方を見る。しかしカミラは表情を変えることなく続けた。
「その寂しさがあるから、大切な人のぬくもりを忘れないでいられるの」
ぽかんとしているアレクシウスを、カミラはただじっと見つめ返す。カミラの表情は一見するといつもの仏頂面だが、アレクシウスには普段とは全く違うものが見えていた。
哀悼の意が染み込んだその表情は紛れもなく、寂しさを茶化して薄れさせたがる孤独な弟のためのものだ。飲み込みきれない思いを抱えたまま、独りであっても前へ進むことを決意し、故郷からはるか遠い新大陸へ渡った家族のため。彼のための励ましと慰めだ。
カミラは幼い日に道を分かたれた兄のことなど、何も知らずにいる。それでも今そばに居る家族と、想いを分かち合うことはできた。
アレクシウスはゆっくりと目を細める。こみ上げた思いを言葉にするのは、子供のように振る舞いながらでは難しいことだった。
「姉さんって……思ったより人間なんだ」
「当たり前でしょう。失礼なこと言わないで」
「ご、ごめん」
アレクシウスの一言で、カミラはいつもの仏頂面に戻ってぷいとそっぽを向いた。抱えた本の背表紙の汚れを払うような仕草をしながら、部屋の入口側へ向けて踵を返す。
その一瞬にアレクシウスの視界に映ったのは、ランプの微かな光だけでも手に取るようにわかる、不器用な姉の照れくさそうな横顔だった。
「早く寝たら? お茶、飲み終えたんでしょう」
「ああ、うん。そうだな」
「まったく。命預けてるんだから……しっかりしてよね」
その一言を最後に、カミラは部屋を出ようとする。気がつけば夜の細い雨は止み、雲の隙間から月明かりが覗いていた。
アレクシウスはその背に向けて、微笑みながら一言を返した。その声色にはもう、心を引き摺るような哀傷は残っていなかった。
「任せてよ。ちゃんと守るからさ」