水を得た獣
#3G
/
#Short
/
R-15:sexual
しょぼしょぼコネコチャンといきいきおじさんが話してるだけ。
***
本文を読む
タンジアの港には実に多種多様な人々が連日集う。貿易商に釣り人、そして腕の立つハンターたち。野心を胸に秘め、果てなき夢を追いかけて……彼もまた、そうしてここへ辿り着いた者の一人だった。
流浪の旅を終えてそれなりに時間の経った今は、そんなことはすっかり忘れてしまっているようだったが。
穏やかな潮風が褪せたような色味のブロンドを撫でる。毒狗竜素材のテンガロンハットから伸ばしっぱなしの髪を覗かせる男ハンター——ライは、悠然とした態度でタンジアの酒場へと足を踏み入れた。
背中には禍々しい色合いの猛毒を宿す双剣を携え、しかし彼自身はそれに似つかわしくもない呑気な表情でいた。
——こんな天気のいい日には、酒でも呑んでのんびり昼寝がしたいもんだ。それだというのに、気がつけば財布が随分と軽くなっているじゃないか。一体いつ、誰がこんなに使ったんだか。
いや俺だ。間違いなく遊びすぎた。いい加減何かしらクエストを受けなければいけない、んだが——。
どうにも気分が上がらない。そう言いたげな蝸牛の歩みで、ライは酒場内に構えられているレストランの展望席へと向かう。
クエストの契約金分に加え、腹ごしらえをする金が残っていたのは幸いだったと言えるだろう——過ぎたいつかの日にはそれすら残っておらず、皮肉屋の槍使いに借りを作る羽目になった。嫌味ったらしく不当な高い利子をつけられて絶望した日々は、彼にとっては思い出したくもない出来事だった。
これ以上気分を落としたくはない、とライは過った思い出を振り払いながら展望席へ繋がる短い階段を上る。開放感に満ちたこの空間は彼のお気に入りだ。
そしてやっと彼の視界に入った〝先客〟もまた、この場所を指定席としていた。
「おっと。先を越されたね」
ライが声を掛けたのは、この港では暑苦しそうにも見える白兎獣の装備に身を包み雌火竜の重弩を携えた女ハンター。ギルドには「ヴァシカ」という仮の名で通している彼女は、少し前に故郷を離れこの港を拠点としたばかりだった。
時期としては、港での仕事がやっと軌道に乗り始めたところ。誂えたばかりの真新しい装備も彼女の白い肌にはよく馴染んでいて、新たな狩猟生活を楽しんでいるらしい彼女はいつ見ても笑顔だった。
しかしこの日は違っていた。普段ならライを見つけるなり花のような笑みを零す彼女は、すぐ隣にわざとらしく彼が腰を落ち着けても浮かない顔をしていた。
「おじさん……今日はお休み?」
「うーん、いい感じの依頼がないか探しに来たってところかな」
「そうなんだ」
一度はライを見上げた視線を、ヴァシカは再びテーブルに落としてしまった。見るからに落ち込んでいる彼女に内心では気を揉みながらも、ライは普段の調子を保って話を続ける。
「そろそろ手持ちが危なくてね。そういうわけだから、悪いけど〝遊び〟のお誘いは今日は断らせてもらうよ」
「うん……」
——おや、珍しい。
いつもならすぐに食い下がってくるはずなのに。仕方ないなと言いつつ、二人きりになってじっくり話を聞いて慰めてあげようかと思っていたのに——あわよくばベッドの上で。
そんな下衆な考えを冗談めかして脳裏に巡らせつつも、ライは椅子にゆったりと座り直す。聞く姿勢をとった彼は、マスクの下で穏やかな笑みを浮かべながら声音をいっそう和らげた。
「なにかあった?」
ヴァシカはしばしの間返答に迷うように目線を泳がせる。しかし答えとなる事実はひとつであり、その戸惑いは自らを情けなく思うが故のことだった。
「クエスト、失敗しちゃった」
「おや……怪我はなかったかい」
「大丈夫。……モンスターを見つけられなくて、疲れてリタイアしたの」
「ああー、そりゃあ……大変だったね」
正直に語りながら不甲斐なさそうな表情になるヴァシカに、どんな言葉をかけるべきかとライは悩ましげに腕を組む。
ライは彼女と共に狩りをしたことはなかった。ギルド内での評価を聞く限りでは、腕前は十分にあると判断できた。
しかし以前から気がかりなのは、帰還がやけに遅いことだった。のんびり屋な彼女らしいと言えばそうだが、どうにも〝知識の乏しさ〟も原因としてはあるらしい。
狩猟の知識。モンスターの知識。それらがなければ効率的な狩りは成り立たない。少なくとも「ターゲットが立ち寄りそうなエリアを予測する」という過程なしでは、熟れた狩猟とは言い難いだろう。
彼女はまだ若い。伸び代なら無限大のはず。
ならばそれを支え、成長を見届けるのも先輩の仕事。ともあれこうも落ち込んでしまっては学びに繋がらなくなってしまう——と、ライは更に語調を優しいものに変えた。
「そんな日もあるさ。きっと今回は偶々運がなかったんだ、次は見つけられるよ」
普遍的な励ましに、ヴァシカは少しだけ顔を上げた。しかしすぐにまた俯いて、今度は更に声を細らせてしまった。
「でも……ひとを怪我させちゃった。どうしよう」
「うん? どういうこと?」
話が見えなくなったライは小首を傾げる。あくまでもヴァシカが自然と語るのを待ちながら、すっかり小さく縮こまっている彼女の背を優しく撫でた。
自分ひとりの失態を恥じるだけでなく、彼女はなにやら悔いている。彼女は人命に関わるような緊急性の高い依頼を受けることはないはずで、それはつまり自身の悠長な性格を理解しているからだと思われたのだが。
「わたしが帰還してすぐに、代わりに狩ってくるって言ってくれたひとがいたの。剣士の男のひと……」
「その人が怪我を?」
「うん……命は無事だったけど、火傷でボロボロになっちゃった。モンスターも獲り逃したって……」
成る程、とライは唸った。聞いた限りでも情報を組み合わせれば、なんとも納得の行く流れになるようだ。
ヴァシカには特段の華やかさはなかったが、持ち前のおおらかさと人懐こさ、そして色白でややふくよかな体つきと素朴な愛くるしさから、港のハンターたち——特に一部の男性からは人気があった。港ではいつの間にやら男たちに囲まれてちやほやされている、そんな〝花〟なのだ。
彼女が落ち込みながら帰還したならば、そういった紳士たちが放っておく訳がない。我先にと名乗りを上げ、彼女の心を掴むべく奮起することだろう。……此度においては下心が裏目に出たか、一人の男が儚くも燃え尽きる結果となったようだが。
「火傷、か。相手はなんだったんだ?」
「リオレウス。火山を縄張りにしているの」
「ふぅむ。確かにヤツはしっかり準備していかないと、剣士にはキツい相手になるかもしれないな」
〝空の王者〟として知られる火竜。地上に引きずり降ろす術を用意していなければ、ご自慢の飛行能力に翻弄されて灼熱のブレスで丸焦げになること請け合い。そんな知識は、新米でもない限りハンターにとっては常識のはずだ。
馬鹿な男もいたものだ、とライは空を仰ぐ。
いいところを見せたいと熱くなる気持ちはわからなくもないが、それで彼女をより消沈させてどうする。まったく愚かしい話だ——。
呆れ返っているライの心内を察する余裕さえないらしいヴァシカは、感じた責任からか潤んだ声になってしまった。
「わたしが最初からリオレウスを見つけられていたら。わたしはガンナーだからそんなに苦労しないし、なによりあのひとはあんなひどい怪我しなかったかもしれないのに……」
ヴァシカの悔悟の情が染み入るような声を聞きながら、ライは彼女の細い肩にぽんと手を置いた。そこには最早彼女の取り巻きが見せるような邪な気持ちは込められておらず、幼い子を諭すような思いだけが乗せられていた。
「あまり責任を感じすぎるな。過ぎてしまったことは変えられないし、代わりに行った彼の準備不足も原因としてあるはずだ」
「……でも」
「大丈夫さ。諦めずにもう一度、自分で挑戦してみたらどうだ? もちろん準備は念入りにね」
顔を上げたヴァシカに、ライはにこりと笑いかける。まるい瞳を涙で潤ませていたヴァシカの暗い面持ちが、密かに想いを寄せる相手の優しい笑顔を前にほんのりと明るさを取り戻した。
ところがそれすらも束の間。ヴァシカはまたすぐに表情を曇らせ、手元にまで目線を落としてしまう。
「そうしたかった、んだけど」
「ん?」
これでも駄目か、と思う前にライは僅かに身を乗り出し、彼女の心に残った最後の棘に耳を傾けた。
それは確かに、普段は気丈な彼女を沈めてしまうには十分なものであった。
「リオレウス……手負いになって、かなり凶暴化してるらしいの。火山の環境も不安定になってきたからギルドが制限をかけてて……わたしのランクじゃ、もうクエストは受けられない」
——おやおや。ガンナーの彼女の手も届かないところへ行ってしまうとは、ヤツはなかなかに意地悪な竜のようだ。これではやりきれない思いに苛まされてしまうのも已む無しか。
やり直すことさえ許してはもらえない。その苦しみは痛いほどに己の身が知っている——。
「……ううむ。まあ、そうなってしまったものは仕方がない。キミは気持ちを切り替えて、モンスターの行動を勉強し直すといい。次こそ逃さないようにね」
ライは終始落ち着いた声音で、ヴァシカを励まそうと努めた。その思いが通じたのか、ヴァシカはやっと微笑みを見せる。
「うん。落ち込んでばっかりじゃだめだよね」
「その意気だ。俺が知っていることでよければいくらでも教えるから、今度また時間をとってじっくり話そうか」
「ありがとう、おじさん。えへ」
いつものようにふにゃりと笑ったヴァシカを見て、ライは碧色の目を細めた。
こうしているときの彼女はまさに純真無垢で、この世の穢れなどひとつも知りはしないかのようだ。どう抑えていたって、醜い欲望の一つや二つ飛び出してしまいそうになる。
——いけない。己が何者であるかなど、彼女には無縁でなくてはならない。誰にでもそうしているように。
彼女は特別などではない。もう誰も、特別には——。
ライはゆっくりと瞬きをしてから新鮮な空気を吸う。そうして切り替えた途端に、またひとつ純な欲求が身を駆け抜けた。
求めていたものが目の前にある。それにやっと気付いたライは、長らくの暇に終止符を打つことに決めた。
「……どういたしまして。じゃあ、俺は仕事の準備をするから。またな」
「うん。気をつけてね」
ライは立ち上がり、元気を取り戻したヴァシカの方を一瞥してその場を立ち去ろうとする。ヴァシカは手をひらひらと振って、そんな彼を見送るつもりでいた。
しかしライはふと立ち止まり、もう一度ヴァシカの方を振り返って問いかける。
「一つ聞き忘れた」
その声音は先程までとはまるで違っていた。適度に開いた二人の距離が、ヴァシカにそれを悟らせることを拒んだ。
彼の声はどことなく弾んでいた。まるで何かを期待するかのように。
「そのリオレウスに挑もうとしているハンターはいたか?」
「え、ううん。ひどい怪我の噂が広まったからかな、まだ誰も受けようとしてないみたい」
「そうか。ありがとな、仔猫ちゃん」
わざとらしくヴァシカをそう呼んだ彼は、手を振り返して再び彼女に背を向けた。そのまま展望席の階段を下りて、彼は真っ直ぐに酒場を去っていった。
そんな彼の背中を見送って、それでもなお問いかけの意図は汲めなかったらしいヴァシカは、不思議そうに小首を傾げていた。
***
馴染みの毒狗竜装備も、こういったときばかりは彼の装甲となることを辞める。命あらずとも己には務まらないと理解するのか、革の色味がどことなく頼りなく映る。
代わりに彼が手に取ったのは、より重く、より頑丈な〝蒼〟。それは夜空を舞う王者の魂を宿し、身に纏えば彼の情熱に呼応して秘められた力を生みだす。一分の隙もなく、彼の中で鼓動を重ねる存在をより完成へと近づけた。
彼は迷いなくとっておきの得物を手にした。幻想的な光を放つ双つの刀身を見つめ、塵すら残さぬその爆発的な力を発揮せんと奮い立つ様を確かめる。
己が甲殻、己が爪牙。皆、準備は整っている。あとは舞台へと赴くだけ。
彼は再び酒場へと向かう。食事はカウンターで手早く済ませ、代金を支払うなり身を翻して受付へと向かっていく。
担いだポーチには最低限の食糧、そして薬が少々。たったこれだけでも彼には重たすぎるほどだった。
ハンターならば当たり前の対抗策など、選択肢にすら上らない。〝彼〟にはそれで十分なのだ。
——あの子の話を聞けてよかった。なんともいい話だった。ああ、この上ない。一度誘惑されてしまえば、もうそのことしか考えられないほどだ。
なんていい女だろう。帰還した暁にはたっぷりと礼をせねばならないな——。
「……火山に手負いの火竜がいると聞いた。クエストは出ているか」
挨拶もなく開口一番に受付嬢にそう告げて、年若い彼女が一瞬困惑するのも構わずに〝彼〟は続ける。
「すぐに出発する。手配を頼む」
依頼の詳細を確かめることすらなく、〝彼〟はカウンターに契約金を置いた。急いで手配を済ませた受付嬢は、既に出発口へ向かっている〝彼〟の背へと控えめに激励の言葉をかけた。
〝彼〟は海に生きる獣。鎧の奥から覗く眼光は、さながら水を得たかのよう。激流を宿した深い色のそれは、どこか恐ろしく、そして愉しげに輝いた。
未来永劫変わることのない性。それは永遠に付き纏い疼き続ける、血に強く刻まれた本能だった。
狩りたい。より強く、より猛る生命を、この手で。
それが火山にいることを知らせてくれたかのハンターのことなど、もはや眼中にはない。これから始まるのは彼女のための義戦などではなく、燃え盛る炎と渦を巻く荒潮のような、抑えきれない激情をぶつけ合うための血戦だ。
——ああ、極上の獲物だろうな。傷つき、人の血を浴びて、怒りに我を忘れた竜は。
この双剣で斬り伏せる瞬間が楽しみでたまらない。
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更新日:2023年11月19日05:52
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しょぼしょぼコネコチャンといきいきおじさんが話してるだけ。
***
タンジアの港には実に多種多様な人々が連日集う。貿易商に釣り人、そして腕の立つハンターたち。野心を胸に秘め、果てなき夢を追いかけて……彼もまた、そうしてここへ辿り着いた者の一人だった。
流浪の旅を終えてそれなりに時間の経った今は、そんなことはすっかり忘れてしまっているようだったが。
穏やかな潮風が褪せたような色味のブロンドを撫でる。毒狗竜素材のテンガロンハットから伸ばしっぱなしの髪を覗かせる男ハンター——ライは、悠然とした態度でタンジアの酒場へと足を踏み入れた。
背中には禍々しい色合いの猛毒を宿す双剣を携え、しかし彼自身はそれに似つかわしくもない呑気な表情でいた。
——こんな天気のいい日には、酒でも呑んでのんびり昼寝がしたいもんだ。それだというのに、気がつけば財布が随分と軽くなっているじゃないか。一体いつ、誰がこんなに使ったんだか。
いや俺だ。間違いなく遊びすぎた。いい加減何かしらクエストを受けなければいけない、んだが——。
どうにも気分が上がらない。そう言いたげな蝸牛の歩みで、ライは酒場内に構えられているレストランの展望席へと向かう。
クエストの契約金分に加え、腹ごしらえをする金が残っていたのは幸いだったと言えるだろう——過ぎたいつかの日にはそれすら残っておらず、皮肉屋の槍使いに借りを作る羽目になった。嫌味ったらしく不当な高い利子をつけられて絶望した日々は、彼にとっては思い出したくもない出来事だった。
これ以上気分を落としたくはない、とライは過った思い出を振り払いながら展望席へ繋がる短い階段を上る。開放感に満ちたこの空間は彼のお気に入りだ。
そしてやっと彼の視界に入った〝先客〟もまた、この場所を指定席としていた。
「おっと。先を越されたね」
ライが声を掛けたのは、この港では暑苦しそうにも見える白兎獣の装備に身を包み雌火竜の重弩を携えた女ハンター。ギルドには「ヴァシカ」という仮の名で通している彼女は、少し前に故郷を離れこの港を拠点としたばかりだった。
時期としては、港での仕事がやっと軌道に乗り始めたところ。誂えたばかりの真新しい装備も彼女の白い肌にはよく馴染んでいて、新たな狩猟生活を楽しんでいるらしい彼女はいつ見ても笑顔だった。
しかしこの日は違っていた。普段ならライを見つけるなり花のような笑みを零す彼女は、すぐ隣にわざとらしく彼が腰を落ち着けても浮かない顔をしていた。
「おじさん……今日はお休み?」
「うーん、いい感じの依頼がないか探しに来たってところかな」
「そうなんだ」
一度はライを見上げた視線を、ヴァシカは再びテーブルに落としてしまった。見るからに落ち込んでいる彼女に内心では気を揉みながらも、ライは普段の調子を保って話を続ける。
「そろそろ手持ちが危なくてね。そういうわけだから、悪いけど〝遊び〟のお誘いは今日は断らせてもらうよ」
「うん……」
——おや、珍しい。
いつもならすぐに食い下がってくるはずなのに。仕方ないなと言いつつ、二人きりになってじっくり話を聞いて慰めてあげようかと思っていたのに——あわよくばベッドの上で。
そんな下衆な考えを冗談めかして脳裏に巡らせつつも、ライは椅子にゆったりと座り直す。聞く姿勢をとった彼は、マスクの下で穏やかな笑みを浮かべながら声音をいっそう和らげた。
「なにかあった?」
ヴァシカはしばしの間返答に迷うように目線を泳がせる。しかし答えとなる事実はひとつであり、その戸惑いは自らを情けなく思うが故のことだった。
「クエスト、失敗しちゃった」
「おや……怪我はなかったかい」
「大丈夫。……モンスターを見つけられなくて、疲れてリタイアしたの」
「ああー、そりゃあ……大変だったね」
正直に語りながら不甲斐なさそうな表情になるヴァシカに、どんな言葉をかけるべきかとライは悩ましげに腕を組む。
ライは彼女と共に狩りをしたことはなかった。ギルド内での評価を聞く限りでは、腕前は十分にあると判断できた。
しかし以前から気がかりなのは、帰還がやけに遅いことだった。のんびり屋な彼女らしいと言えばそうだが、どうにも〝知識の乏しさ〟も原因としてはあるらしい。
狩猟の知識。モンスターの知識。それらがなければ効率的な狩りは成り立たない。少なくとも「ターゲットが立ち寄りそうなエリアを予測する」という過程なしでは、熟れた狩猟とは言い難いだろう。
彼女はまだ若い。伸び代なら無限大のはず。
ならばそれを支え、成長を見届けるのも先輩の仕事。ともあれこうも落ち込んでしまっては学びに繋がらなくなってしまう——と、ライは更に語調を優しいものに変えた。
「そんな日もあるさ。きっと今回は偶々運がなかったんだ、次は見つけられるよ」
普遍的な励ましに、ヴァシカは少しだけ顔を上げた。しかしすぐにまた俯いて、今度は更に声を細らせてしまった。
「でも……ひとを怪我させちゃった。どうしよう」
「うん? どういうこと?」
話が見えなくなったライは小首を傾げる。あくまでもヴァシカが自然と語るのを待ちながら、すっかり小さく縮こまっている彼女の背を優しく撫でた。
自分ひとりの失態を恥じるだけでなく、彼女はなにやら悔いている。彼女は人命に関わるような緊急性の高い依頼を受けることはないはずで、それはつまり自身の悠長な性格を理解しているからだと思われたのだが。
「わたしが帰還してすぐに、代わりに狩ってくるって言ってくれたひとがいたの。剣士の男のひと……」
「その人が怪我を?」
「うん……命は無事だったけど、火傷でボロボロになっちゃった。モンスターも獲り逃したって……」
成る程、とライは唸った。聞いた限りでも情報を組み合わせれば、なんとも納得の行く流れになるようだ。
ヴァシカには特段の華やかさはなかったが、持ち前のおおらかさと人懐こさ、そして色白でややふくよかな体つきと素朴な愛くるしさから、港のハンターたち——特に一部の男性からは人気があった。港ではいつの間にやら男たちに囲まれてちやほやされている、そんな〝花〟なのだ。
彼女が落ち込みながら帰還したならば、そういった紳士たちが放っておく訳がない。我先にと名乗りを上げ、彼女の心を掴むべく奮起することだろう。……此度においては下心が裏目に出たか、一人の男が儚くも燃え尽きる結果となったようだが。
「火傷、か。相手はなんだったんだ?」
「リオレウス。火山を縄張りにしているの」
「ふぅむ。確かにヤツはしっかり準備していかないと、剣士にはキツい相手になるかもしれないな」
〝空の王者〟として知られる火竜。地上に引きずり降ろす術を用意していなければ、ご自慢の飛行能力に翻弄されて灼熱のブレスで丸焦げになること請け合い。そんな知識は、新米でもない限りハンターにとっては常識のはずだ。
馬鹿な男もいたものだ、とライは空を仰ぐ。
いいところを見せたいと熱くなる気持ちはわからなくもないが、それで彼女をより消沈させてどうする。まったく愚かしい話だ——。
呆れ返っているライの心内を察する余裕さえないらしいヴァシカは、感じた責任からか潤んだ声になってしまった。
「わたしが最初からリオレウスを見つけられていたら。わたしはガンナーだからそんなに苦労しないし、なによりあのひとはあんなひどい怪我しなかったかもしれないのに……」
ヴァシカの悔悟の情が染み入るような声を聞きながら、ライは彼女の細い肩にぽんと手を置いた。そこには最早彼女の取り巻きが見せるような邪な気持ちは込められておらず、幼い子を諭すような思いだけが乗せられていた。
「あまり責任を感じすぎるな。過ぎてしまったことは変えられないし、代わりに行った彼の準備不足も原因としてあるはずだ」
「……でも」
「大丈夫さ。諦めずにもう一度、自分で挑戦してみたらどうだ? もちろん準備は念入りにね」
顔を上げたヴァシカに、ライはにこりと笑いかける。まるい瞳を涙で潤ませていたヴァシカの暗い面持ちが、密かに想いを寄せる相手の優しい笑顔を前にほんのりと明るさを取り戻した。
ところがそれすらも束の間。ヴァシカはまたすぐに表情を曇らせ、手元にまで目線を落としてしまう。
「そうしたかった、んだけど」
「ん?」
これでも駄目か、と思う前にライは僅かに身を乗り出し、彼女の心に残った最後の棘に耳を傾けた。
それは確かに、普段は気丈な彼女を沈めてしまうには十分なものであった。
「リオレウス……手負いになって、かなり凶暴化してるらしいの。火山の環境も不安定になってきたからギルドが制限をかけてて……わたしのランクじゃ、もうクエストは受けられない」
——おやおや。ガンナーの彼女の手も届かないところへ行ってしまうとは、ヤツはなかなかに意地悪な竜のようだ。これではやりきれない思いに苛まされてしまうのも已む無しか。
やり直すことさえ許してはもらえない。その苦しみは痛いほどに己の身が知っている——。
「……ううむ。まあ、そうなってしまったものは仕方がない。キミは気持ちを切り替えて、モンスターの行動を勉強し直すといい。次こそ逃さないようにね」
ライは終始落ち着いた声音で、ヴァシカを励まそうと努めた。その思いが通じたのか、ヴァシカはやっと微笑みを見せる。
「うん。落ち込んでばっかりじゃだめだよね」
「その意気だ。俺が知っていることでよければいくらでも教えるから、今度また時間をとってじっくり話そうか」
「ありがとう、おじさん。えへ」
いつものようにふにゃりと笑ったヴァシカを見て、ライは碧色の目を細めた。
こうしているときの彼女はまさに純真無垢で、この世の穢れなどひとつも知りはしないかのようだ。どう抑えていたって、醜い欲望の一つや二つ飛び出してしまいそうになる。
——いけない。己が何者であるかなど、彼女には無縁でなくてはならない。誰にでもそうしているように。
彼女は特別などではない。もう誰も、特別には——。
ライはゆっくりと瞬きをしてから新鮮な空気を吸う。そうして切り替えた途端に、またひとつ純な欲求が身を駆け抜けた。
求めていたものが目の前にある。それにやっと気付いたライは、長らくの暇に終止符を打つことに決めた。
「……どういたしまして。じゃあ、俺は仕事の準備をするから。またな」
「うん。気をつけてね」
ライは立ち上がり、元気を取り戻したヴァシカの方を一瞥してその場を立ち去ろうとする。ヴァシカは手をひらひらと振って、そんな彼を見送るつもりでいた。
しかしライはふと立ち止まり、もう一度ヴァシカの方を振り返って問いかける。
「一つ聞き忘れた」
その声音は先程までとはまるで違っていた。適度に開いた二人の距離が、ヴァシカにそれを悟らせることを拒んだ。
彼の声はどことなく弾んでいた。まるで何かを期待するかのように。
「そのリオレウスに挑もうとしているハンターはいたか?」
「え、ううん。ひどい怪我の噂が広まったからかな、まだ誰も受けようとしてないみたい」
「そうか。ありがとな、仔猫ちゃん」
わざとらしくヴァシカをそう呼んだ彼は、手を振り返して再び彼女に背を向けた。そのまま展望席の階段を下りて、彼は真っ直ぐに酒場を去っていった。
そんな彼の背中を見送って、それでもなお問いかけの意図は汲めなかったらしいヴァシカは、不思議そうに小首を傾げていた。
***
馴染みの毒狗竜装備も、こういったときばかりは彼の装甲となることを辞める。命あらずとも己には務まらないと理解するのか、革の色味がどことなく頼りなく映る。
代わりに彼が手に取ったのは、より重く、より頑丈な〝蒼〟。それは夜空を舞う王者の魂を宿し、身に纏えば彼の情熱に呼応して秘められた力を生みだす。一分の隙もなく、彼の中で鼓動を重ねる存在をより完成へと近づけた。
彼は迷いなくとっておきの得物を手にした。幻想的な光を放つ双つの刀身を見つめ、塵すら残さぬその爆発的な力を発揮せんと奮い立つ様を確かめる。
己が甲殻、己が爪牙。皆、準備は整っている。あとは舞台へと赴くだけ。
彼は再び酒場へと向かう。食事はカウンターで手早く済ませ、代金を支払うなり身を翻して受付へと向かっていく。
担いだポーチには最低限の食糧、そして薬が少々。たったこれだけでも彼には重たすぎるほどだった。
ハンターならば当たり前の対抗策など、選択肢にすら上らない。〝彼〟にはそれで十分なのだ。
——あの子の話を聞けてよかった。なんともいい話だった。ああ、この上ない。一度誘惑されてしまえば、もうそのことしか考えられないほどだ。
なんていい女だろう。帰還した暁にはたっぷりと礼をせねばならないな——。
「……火山に手負いの火竜がいると聞いた。クエストは出ているか」
挨拶もなく開口一番に受付嬢にそう告げて、年若い彼女が一瞬困惑するのも構わずに〝彼〟は続ける。
「すぐに出発する。手配を頼む」
依頼の詳細を確かめることすらなく、〝彼〟はカウンターに契約金を置いた。急いで手配を済ませた受付嬢は、既に出発口へ向かっている〝彼〟の背へと控えめに激励の言葉をかけた。
〝彼〟は海に生きる獣。鎧の奥から覗く眼光は、さながら水を得たかのよう。激流を宿した深い色のそれは、どこか恐ろしく、そして愉しげに輝いた。
未来永劫変わることのない性。それは永遠に付き纏い疼き続ける、血に強く刻まれた本能だった。
狩りたい。より強く、より猛る生命を、この手で。
それが火山にいることを知らせてくれたかのハンターのことなど、もはや眼中にはない。これから始まるのは彼女のための義戦などではなく、燃え盛る炎と渦を巻く荒潮のような、抑えきれない激情をぶつけ合うための血戦だ。
——ああ、極上の獲物だろうな。傷つき、人の血を浴びて、怒りに我を忘れた竜は。
この双剣で斬り伏せる瞬間が楽しみでたまらない。